「軍都」壊滅73 戦場26 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 沖縄本島では4月6日から血で血を洗うような激しい戦闘が続いたが、日本軍はしだいに追い詰められ、5月22日、牛島司令官はついに沖縄本島南端の喜屋武(きゃん)半島へ全軍撤退を命じた。それは「本土決戦」のためアメリカ軍をできる限り沖縄に足止めしようとしたものだったが、喜屋武半島に避難する多くの住民の安全は顧みられることがなかった。

 陸軍病院に撤退命令が出たのは5月25日。わずかな荷物を持って壕を出る宮良さんたちの背中で、「学生さん、連れてって」と重傷患者の叫び声が聞こえた。たとえ重傷を負っていても、捕虜になることが許されないのは誰もが知っていた。

 宮良さんが配属された陸軍病院第三外科は喜屋武半島にたどり着くとガマ(洞窟)を見つけて潜り込んだ。そのガマにはすでに近くの人たちが避難していたのだが、多くは軍に追い出された。ガマから一歩外に出たら、いつ砲弾が炸裂し、焼夷弾で焼かれるかも知れないというのに。

 6月18日、ついに日本軍は壊滅状態となった。19日の明け方には、宮良さんたちのいるガマにもアメリカ軍がガス弾を投げ込んだ。真っ白い煙が立ち込め、喉がグイグイと締め付けられる。生徒たちは叫んだ。「先生、苦しいよう!殺して!殺して!」。いざという時のために生徒たちは兵隊から手榴弾をもらっていたのだが、「死ぬ時はみんないっしょだ」と先生が取り上げていたのだ。生徒たちが死に急ぐことのないようにという、先生なりの配慮だったと宮良さんは後で思う。

 宮良さんが息を吹き返したのは3日後のこと。その時ガマの中には学徒を含む陸軍病院関係者、兵隊など約100人がいたが、そのうち80人あまりが命を絶たれた。宮良さんは奇跡的に助かった一人だったのだ。でもそれからしばらく、宮良さんの魂はどこかへ飛んでいってしまったようだった。

 宮良さんが石垣島に戻ったのは翌年3月初め。

 

 目をきょろきょろさせる間もなく、母と妹の姿が目に飛び込んできました。私は母に飛びついていき、母の胸に顔をうずめました。またと会うことなどできないと思っていた母です。母のからだのぬくもりがじわっーと伝わってきました。

 「ああ、私はほんとうに生きて帰ってきたんだ……」

 おたがいに抱き合うだけで言葉などひとこともありませんでした。(宮良ルリ『私のひめゆり戦記』ニライ社1986)

 

 友だちも一斉にかけより涙を流して喜んでくれた。宮良さんはその時やっと、自分が今生きている喜びを取り戻した。

 宮良さんは師範学校の学生で学徒出陣した宮良英加さんが内輪の壮行会で語った言葉を思い出す。宮良英加さんはその後の戦闘で重傷を負い、ガス壊疽で死んだ。

 

 …生き残ったら必ず伝えてほしい。戦争は非情なものだ。どんなに勉強したくてもできない。したいことがまだまだたくさんあったのに。戦争のない時代に生まれたかったということをのちのちの人に伝えてほしい(『私のひめゆり戦記』)

 

 宮良英加さんの言葉は、戦火の中にあっても宮良ルリさんの心の奥底にしっかり息づいていた。

 戦後、宮良さんは教員として、また「ひめゆり平和祈念資料館」の証言員として、戦争の悲惨さと命の大切さを語り続けた。亡くなられたのは2021年8月12日。94歳だった。