栄吉おじいはその頃まだ子どもだった。波照間島はラジオも新聞もなかったので、おじいの父と上の兄が兵隊にとられてやっと戦争が激しくなっているとわかった。
1945年3月になると山下という学校の先生が「軍ノ命令ダ、今カラ西表島(いりおもてじま)ノ南風見(はいみ)ヘソカイセヨッ!」と言い、「一人デモ残ッタラ、タタッキルゾッ!」と大暴れした。下嶋哲朗さんの『そてつ祭り』(理論社1981)に出てくる話だが本当の話だ。
山下虎雄は波照間島の青年学校の指導員としてやってきた。当時学校の用務員をしていた西里スミさんは後に、「人柄はよかった。体格も大きくて、本土の人は大きいんだなあと」と記憶をたどられたが、「(本当の素性は)全然わからなかった」と話しておられる。(長野智子「波照間島の知られざる『戦争マラリア』の悲劇。沖縄戦で島民絶滅の危機に」ハフポスト2014.8.21)
実は山下虎雄は軍から派遣された秘密工作員で、山下虎雄という名も偽名だった。それが突然軍服を着て刀を持ち、軍の命令だと言って西表島への移住を命令したのだ。しかしその頃の西表島は恐ろしい伝染病マラリアのある島だった。西里スミさんが証言されている。
「(西表に行きたくないと)自分に反対する人がいれば刀を抜いた。脅かして……怖いでしょう。だから、みんなが移住に賛成した。仕方ない。行くしかないと」(「波照間島の知られざる『戦争マラリア』の悲劇。沖縄戦で島民絶滅の危機に」)
『そてつ祭り』では、信幸おじいが一人で山下に立ち向かったという。
おじいが、「西表島には薬も食りょうもない。たくさんいる家畜もどうするのか」と問いつめると、「ムコウデ畑ヲタガヤセ。家畜ハ軍ノ食リョウニスル」というんだ。たたかう力のない年よりこどもを、マラリアでみなごろしにして、島びとの食りょうをうばうつもりだ。(『そてつ祭り』)
波照間島の住民に疎開が強制されたのは慶良間諸島にアメリカ軍が上陸した直後の1945年3月末だった。波照間島は沖縄の一番南の島だから次にアメリカ軍が上陸すると思ったのではなかろうか。では疎開は住民保護が目的か。そうではあるまい。住民保護なら危険なマラリア発生地域に行かせるはずもないし山下が暴力で支配することもなかった。山下の言葉が残っている。
「慶良間島に敵の潜水艦から米軍が上陸して、島の有志がとらえられ、日本軍の配置がもれたのでたやすく陥落した。波照間にもそのことがおこらないとも限らない」(「沖縄タイムス」1982.6.25)
「捕虜となればスパイと見なす」という軍隊の論理で波照間島の人たちを西表島に強制疎開させたのだ。
牛、馬、ヤギ、豚、ニワトリ。家畜はすべて殺せと山下は命令したが、アメリカ軍に食糧を提供したくなかったのか。でも島の人たちにとって牛たちを殺すのは辛かった。
この牛が馬がいなかったら、みんな生きてはこれなかったんだ。それをわけもなく殺そうとしているんだ。生まれたときからめんどうを見て、名前もつけてあるし、顔だってわかる。自分から殺そうなんていうものは、ひとりもいない。山下は日本刀をふりまわしてどなる。(『そてつ祭り』)
家畜のほとんどは兵隊が殺し、日本の軍隊の食糧にしたという。