「軍都」壊滅61 戦場14 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 対馬丸記念館ホームページによると、対馬丸が航行する海ではすでに17隻の船がアメリカ軍潜水艦によって沈められていた。もう子どもとニ度と会えないかもしれないと思えば親は疎開させることに躊躇する。けれど糸数裕子さんら担任の先生が家庭訪問をして熱心に疎開を勧めたので、「先生が行くなら行かせます」となったのだ。

 生き残った糸数さんたち先生は戦後沖縄の地を踏むことが辛かった。誰にも見られたくなかった。対馬丸が遭難したとわかってからしばらくは、糸数さんの家の前に子どもたちの親が、何か手がかりはないかといつも誰か立っていたという。でも冷静に考えれば、担任の先生が助けようとしてもとても助けられるものではなかったのだ。責任を取るべき者は他にいた。

 対馬丸は建造から30年が過ぎた老朽船。速度が遅くて他の輸送船や護衛艦についていくのがやっとだったようだ。船団のスピードが遅ければ敵の潜水艦に狙われやすいのはわかりきったこと。親は軍艦による輸送を希望したが、叶えられなかった。

 また対馬丸が沈没した時、2隻の護衛艦は救助することなく次の攻撃を恐れて一目散に逃げていった。疎開を命じた政府の安全の保証はまさに「空手形」だった。

 沖縄では、疎開の悲劇は他にもある。沖縄で最南端の島となる波照間(はてるま)島。私が下嶋哲朗さんの『そてつ祭り』を初めて手にしたのはいつだったろうか。下嶋さんは最初にこう書いている。

 

 またしても悲しい話と思われるでしょうか。けれども私が島の人びとから聞いたのは、すべてほんとうの出来事なのです。みつおばあの、「二度とこのようなことを味あわされてはならない」という願いが、ふみにじられそうな予感が迫ってくるこのごろです。どんなにつらくても、こんな戦争体験をこそオブラートにつつむことなく伝えていくことが、あの人たちの尊い死を生かすことになる、と私は思うのです。(下嶋哲朗『そてつ祭り』理論社1981)

 

 波照間島は一周15kmで最も高いところが標高60mという小さくて平らな島だ。気候は台風の時以外は年中穏やか。島の人たちは、半年はカツオ漁に出て、あとの半年は米や粟や麦、サトウキビを作った。農作業に欠かせない牛や馬は家族同然。豚やヤギ、鶏もたくさんいる島だった。『そてつ祭り』の中で米(よね)おじいが語る。

 

 雨もよおくふれば豊作だ。かりいれた穂を馬につみあげ、歌をうたいながらかえってくる。夜になれば、男たちは月を見ながら、酒をのんで三味線をひいて、女たちはうたい、おどるさぁ。……ああ、にぎやかなもんだったなぁ。(『そてつ祭り』)

 

 そんな米おじいも19歳になって兵隊にとられ石垣島に行った。軍隊はおそらく独立混成第45旅団。鹿児島から沖縄に向かう途中で魚雷攻撃を受け4600名中3700名を失ったため、1944年7月に現地召集者を加えて再編されている。戦死者は少なかったが多くの兵士がマラリアに苦しんだ。(アジア歴史資料センター)

 けれど戦争が終わって米おじいが波照間島に帰ってみたら、島はもっと大変だった。