ヒロシマの記憶37 救難2 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 恵美敏枝さんは京橋川の川上から兵隊の乗った舟がやってきて救助に当たったと手記に書いている。川上にあった部隊と言えば、太田川の本川と京橋川の分流地点、今は安田学園のある場所におかれていた工兵補充隊が考えられる。

 爆心地から2km離れていても工兵補充隊の被害が大きかったことを、朝鮮で徴兵され広島に送られた郭貴勲(カクキフン)さんが証言している。郭さんは6日朝、白島の工兵補充隊の営庭で上空にB-29爆撃機が方向転換するのを見たとたん、巨大な火の玉が天と地の間をおおうのを感じた。

 

 「あっ、熱い」と感じ、同時に「もうだめだ」という考えが脳裏を走りました。わたしは走りつづけながら、「死んでたまるものか。必ず生きのびねばならない」と心の内で誓いました。いま爆発した火の玉が何物であるかも知らず、兵舎のカワラが飛び散るのも気づかずに暗闇の中を倒れ、ころびながら走りつづけました。そして、防空壕を探してそこに足を突っ込んだ瞬間、背中が熱く感じられました。何だろうと思い、襦袢を脱いでみると火がついていました。急いで踏み消したところへ、同僚が一人、二人と集まってきました。みな血を流し、おののき、あわてふためいていました。 (郭貴勲裁判一審「陳述書」2000)

 

 それでも工兵補充隊が、旋風が襲う前の京橋川に救難の舟を出したのは間違いなさそうだ。今の白島小学校のあるあたり、陸軍幼年学校の建物内で被爆した野崎和夫さんも「原爆の絵」に描いて証言している。

 

 もうそのときには工兵隊の人が鉄舟をもって来て 対岸の川原まで人々を運んで居りました。しかし私がついた頃は大勢の人々が、我先に一度に乗るので舟は沈み流される人も大勢いました。(野崎和夫「市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)」広島平和記念資料館)

 

 一方、宇品の陸軍船舶司令部でも、佐伯文郎司令官が配下の部隊(「暁部隊」)にいち早く消火活動と救難の命令を発している。

 

 船防作命第一号

 船舶命令 八月六日 〇八五〇

 宇品

一、本六日〇八一五敵機ノ爆撃ヲ受ケ各所ニ火災発生シ爆風ノ為被害相当アルモノゝ如シ

二、予ハ広島市ノ消火竝ニ救難ニ協力セントス

(中略)

五、野戦船舶本廠長ハ救難隊ヲ以テ京橋川ヲ遡江シ救難ニ任スルト共ニ更ニ一部ヲ以テ市内ノ消防ニ任セシムヘシ(安藤福平「《史料紹介》原爆投下直後の在広陸軍部隊公文書『船舶司令部作命綴』と『第五十九軍作命甲綴』」『広島県立文書館紀要 第13号』2015)

 

 爆心地からわずか550mの中央電話局で被爆した当時15歳の寺前妙子さんは、火に追われて鶴見橋のたもとまで逃げたが、見ると木造の橋も燃え出していた。傷がひどいから川に入ってはいけないと止められたのだが、寺前さんは満潮の京橋川に飛びこんだ。

 

 以前あれ程、水には恐れなかった私が、途中まで行くと、息が切れ手足は硬直し、苦しくなる一方である。こんなに苦しい目に会うのだったら、いっそう死んだ方がと、うつらうつらしていると、先生がそのたびに励まして下さった。お陰で川中まで行くことができ、そこで船の人に助けてもらい、比治山の救護所へ連れて行ってもらった。(中前妙子「師とともに泳ぐ」広島市原爆体験記刊行会編『原爆体験記』朝日選書)

 

 それはおそらく「暁部隊」の船。しかし、船に乗せてもらえて命が助かったという体験記は、他にはまだ見つけられていない。