ヒロシマの記憶36 救難1 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 ある人は火に追われ、ある人は水を求めて川に入り、そのまま川に呑まれて死んでいったが、中には舟や筏があって助かったという人もいる。泉邸(縮景園)裏の京橋川では、広島流川教会の牧師谷本清さんが多くの負傷者を舟に乗せ対岸まで送り届けた。

 谷本さんは爆心地から西に3kmほど離れた己斐の山の中腹で原爆の閃光を見た。そして眼下の広島の町から煙がもくもくと噴き上がってくると一目散で山を駆け下りた。当時、広島流川教会は上流川町(現 鉄砲町)の電車通り近くにあったが、谷本さんは牧師館のある幟町町内会の世話もしていた。谷本さんは教会、家族、町内の人たちが心配でたまらなかったのだ。

 妻のチサさんと生まれて8カ月の娘紘子(こうこ)さんとは幸運にも道ばたでばったり出会い、泉邸には隣組の人たちや知り合いのカトリックの神父たちも避難していた。けれど幟町あたりはものすごい火事で、しかもその火は泉邸に迫ろうとしていた。

 谷本さん舟を一艘見つけ、それに重傷の人たちを乗せて泉邸から対岸に運び始めた。一本の竹竿で漕ぐのだから大変な労力だ。けれど谷本さんは、途中泉邸の火事を消したり旋風が過ぎるのを待ったりしたが、その日暗くなるまで懸命に舟を漕ぎ続けた。

 夕暮れ時、谷本さんが舟を漕いでいると「助けて」という声が聞こえてきた。京橋川の潮が満ちて来て、大火傷をして川岸に横たわる人たちが溺れかかっていたのだ。

 

 砂州にはニ〇人ばかりの男女がいた。谷本氏は岸辺に漕ぎつけて、早く乗れとせきたてたが、誰も動かない。なるほど弱り果てて立つこともできないのだ。谷本氏は舟から降りて、一人の婦人の手をとると、その手の皮が、大きな手袋の型に、ずるりとむけた。(中略)上げ潮なので、いまは竿がとどかない。ほとんど全部を竿で掻いて渡らねばならなかった。対岸の少し高目の砂州に着いて、ぬるぬるの生身を抱いて舟から出し、潮のこない斜面まで運び上げたが、「これはみんな人間なんだぞ」と、何度も何度も、わざわざ自分にいいきかせなければ、とても我慢ができかねた。(ジョン・ハーシー『ヒロシマ(増補版)』法政大学出版局2003)

 

 泉邸裏の京橋川では谷本さんの舟以外にも何艘もの舟が人々の避難を手助けしたようだ。比治山高女3年の恵美(旧姓 西田)敏枝さんが手記に書いている。旋風が吹き荒れ、宮田房枝さんが流されていった後だった。

 

 そのうち川上から二そうの小舟が下って来た。その舟には兵隊さんが乗っていた。そして「師団の者はいないか。」と呼んで居られる。私たちは大声で、「ここに居ります。」と答え、一番先に向岸に渡してもらった。その時の嬉しさは今も忘れられない。(恵美敏枝「通信室・終戦まで 」旧比治山高女第5期生の会『炎のなかにー原爆で逝った旧友の25回忌によせてー』1969 『広島原爆戦災誌 第五巻』所収)

 

 中国軍管区司令部の松村秀逸参謀長の回想録にも次のような記述があるという。

 

 火事は両岸に広がったので、中州に逃げるより仕方がなかった。小舟や筏が活動を始めたが、乗り手の負傷者で雑踏を極め、川に落ち込んだ人もあったし、転覆した舟もあった。(御田重宝『もう一つのヒロシマ』中国新聞社1985)