ヒロシマの記憶34 遺体の浮ぶ川1 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

京橋川と被爆柳

 8月6日、広島の川におびただしい数の遺体が浮んだ。中国軍管区司令部の半地下壕から脱出した比治山高女3年生の宮田房枝さんも川に呑まれて命を落としている。

 泉邸裏の土手では火に追われて多くの人が川に飛びこんだが、泳ぎができない房枝さんは手桶のような物を抱えて川に入った。けれど激しくなっていた川の流れが宮田さんを押し流してしまった。

 

 気のあせる人達は泳いで渡り始めたが、急流におしやられ、向こうの川原に辿りつける人はわずかしかいない。その時だった。小さな木片につかまって浮きつ沈みつ流されて行く宮田さんを見た。堤の上から「あっ」と叫んだままどうすることもできない…(倉田美佐子「通信部の解散まで 」旧比治山高女第5期生の会『炎のなかにー原爆で逝った旧友の25回忌によせてー』1969 『広島原爆戦災誌 第五巻』所収)

 

 房枝さんの遺体は泉邸裏から1200m下流にある柳橋の橋脚にひっかかり、8月8日に引きあげられて火葬にされた。房枝さんの名を呼びながら広島の焼野原をさまよっていた房枝さんの母親が、残された下着に書かれた宮田房枝という名前を見つけたのは、火葬が終わった直後のことだった。

 勤務先の国民学校で負傷者の救護活動に奔走していた兄の哲男さんが家に帰ることができたのは8月13日。

 

 「房枝は?」

 真先に出た言葉はこれであった。

 「ほら、あそこに」

 母は仏壇を指したまま、どっと泣きくずれた。白布に包まれた小さな壺が一つ置かれてあった。(長田新編『原爆の子 広島の少年少女のうったえ』岩波文庫)

 

 それでも、遺骨が家族のもとに帰っただけ、よしとしなければならなかった。

 当時竹屋国民学校の5年生だった北川建次さんは一瞬にして崩れた校舎の下から奇跡的に這い出し、火の見えない比治山の方へ走って逃げた。比治山の手前には京橋川に架かる鶴見橋があるが、北川さんは、橋は半分落ちていたので途中から泳いで渡ったと証言されている。そのころはまだ潮が引いておらず流れが緩やかだったので助かったのかもしれない。

 今はセメントで固められモニュメントとして残る柳の木の下で、疲れ果てた北川さんはしばらくの間眠った。目が覚めてみると、目の前の川には流されていく多くの人の姿があった。

 

 わたしはもうへとへとになって、ちょうど鶴見橋のヤナギの下あたりでたおれこみました。はーっとなってね。そうしているうちに満潮が終わって潮が引きだしたんです。大人も子どももおじいさんもおばあさんも、生きている人も死んでいる人もみんな流れていくんです。がれきもいっぱい流れていく。「助けてくれー」っていって流れてきたけれど、どうしてあげることもできない。(石田優子『広島の木に会いにいく』偕成社2015)

 

 以前某高校放送部の生徒と一緒に北川さんのお話を聞いた時、川を見た時は「いびせかった(怖かった)」、それで一目散に山に駆け上ったと言われたのを今も憶えている。