ヒロシマの記憶33 「きのこ雲」が消えるまで13 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 中国新聞の記者大佐古一郎さんもそのころ泉邸の惨状を目撃している。大佐古さんは広島市の東隣にある府中町の借家で原爆の閃光と衝撃を感じた。西北の空に真赤な雲がもくもくと湧き上がっているのを見て広島市に大変なことが起きているのを察し、すぐに家を飛び出した。

 当時、中国新聞の本社は胡町にあった。今は広島三越がある場所だ。そこまで行こうとするのだが、すでに広島駅前も火の海で、熱気と煙が容赦なく襲いかかってくる。その中を無理やり走って行くと栄橋が見えた。対岸は泉邸。川の水が巻き上げられていた。旋風が吹き荒れていた時だろう。

 

 たけり狂う煙に川の水が巻き上げられる。泉邸裏には追いつめられた何百人もの裸体がひしめき、川面にはつながったように死体が漂う。(大佐古一郎『広島昭和二十年』中公新書1975)

 

 対岸に渡ることを断念した大佐古さんは2kmばかり川沿いの道を進んで牛田町の生家に立ち寄り、そこでやっと午後1時ごろだと知った。すると大佐古一郎さんが見た泉邸裏の惨状は正午過ぎの出来事ということになる。

 ものすごい旋風に川が荒れ狂う中、九死に一生を得た人もいた。

 広島城本丸跡に置かれた中国軍管区司令部の防空作戦室に動員された比治山高等女学校の3年生と言えば「広島全滅」の第一報を伝えた岡(旧姓大倉)ヨシエさんが知られるが、半地下壕の防空作戦室には8月5日の夜から約30名の生徒が勤務していた。(日勤の生徒68名は本丸跡で朝礼中に被爆して全滅)

 その中のひとり倉田美佐子さんは原爆の閃光と爆風の後すぐに外へ出た。そしてあちこちから火の手が上がると重傷の友人を引っぱって泉邸裏まで逃げた。

 

 そこへ突如として、対岸から大たつまきが舞いおこった。燃えさかっている木片をふきあげながらみるみるうちに火の渦は川を越えて私達の立っているところまで近づいて来た。周囲の人達はなだれのように一斉に川にとびこんだ。藤井さんと、私は倒れた大木の幹を伝って川にすべりこみ、その枝をしっかりもって体を水に没した。上から火のついた木片がパラパラと落ちてくる。慌ててもぐればすぐに息が苦しくなる。顔を水面にだせば、じりじりと髪のやける音がする。あとで思い出してもこの時が一番恐ろしかった。本当にもう駄目だと思った。(倉田美佐子「通信部の解散まで 」旧比治山高女第5期生の会『炎のなかにー原爆で逝った旧友の25回忌によせてー』1969)

 

 旋風が過ぎていったあと、川岸にいた同級生の何人かが急流に流され、姿が見えなくなっていた。

 雨はまた叩きつけるように降りだした。黒い大粒の雨だ。倉田さんたちは水の中で寒さに震えた。

 

 我々も皆竜巻の方へ吸込れる様に引付けられた。中には川中へ引込まれた人もあった。其の内に大粒の雨が降って来た。真夏の空はカンカン照って居るので雨では無い。人々はB29がガソリンを撒いたとさわぎ出した。(新保英夫「恐怖の二日間」広島市原爆体験記刊行会『原爆体験記』朝日選書1975)

 

 黒い異様な雨に、人々はアメリカ軍機がガソリンをまいたのではないかと怯えた。確かに飛行機の爆音は聞こえていた。それは広島市の壊滅を写真に撮るためだったが、地上の人たちにとってもう一度空襲があるかと思えば、それは恐怖以外の何物でもない。

 雲が消え、また真夏の空が戻って来た。気象台の調査では午後2時頃だという。