ヒロシマの記憶26 「きのこ雲」が消えるまで6 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 原爆のさく裂から60秒後に撮影された「きのこ雲」に続くのが、山田精三さんが府中町の水分(みくまり)峡から撮った写真のようだ。中国新聞は、「爆心地から約6キロ地点で山田さんが撮ったきのこ雲は、原爆のさく裂から約2分後とみられています。地上から撮影した広島原爆のきのこ雲の写真で、最も早い記録とされています」と報じている。(「中国新聞」2022.2.7)

 

 しばらくして、いわゆる原子雲がムクムクと頭をもたげてきた。真赤、いや違う、黒味がかった朱色、そんな気もする。とにかく、過去一度も見たことのない、あざやかで、強烈な色だった。

 私がシャッターを切ったのは、最初、ムクムクと原子雲が頭をもたげてきたとき(第一巻グラビア写真)。そのあと、最初の雲はかなり高く上がり、そして、次の大きな雲の魂がまた出てきた。私はシャッターをつづけて切ったが、あまりにも大きいため、ファインダーに入らなかった。(『広島原爆戦災誌 第五巻』)

 

 山田さんがシャッターを切ったのが原爆のさく裂から2分後とすると、雲に覆われた火球は高さ5.7kmに達していたと推定できる。(今中哲二「広島原爆炸裂の初期プロセスについての考察 リトルボーイノートより」日本放射化学会『放射化学 第34号』2016)

 山田さんの写真を見ると、その形はまさに「きのこ雲」。モノクロ写真だから色はわからない。雲全体があざやかな朱色だったのか。それとも写真に写っている雲の真ん中のへこんだ黒っぽいところが気象台のスケッチにある「赤黒」の部分に当たるのだろうか。

 次に、さく裂から4分後にエノラ・ゲイの乗組員が「きのこ雲」を撮影している。小川文夫さんらの「広島原爆きのこ雲写真からの高さ推定」(『情報処理学会研究報告』2010)によると、その高さは7.6km、傘部分の幅は2.9km。最初に紹介したガッケンバック撮影の「きのこ雲」と比べると、3分間で高さは倍、幅は1.5倍に大きくなっている。小倉豊文さんの手記を見てみよう。

 

 全く形容を絶した大入道雲が、またしてもムクムクムクムクわきあがる。下から下から上へ上へと盛りあがる。(中略)そして、見る見る上下二段の拡がりをもった妖雲の巨柱になった。(小倉豊文『絶後の記録』中公文庫)

 

 エノラ・ゲイの乗組員が撮った写真を見ても、「きのこ雲」が上下に分れているのがよくわかる。そして下側の雲の塊が大きくなることで全体が巨大な柱のようになっている。

 そのころ、爆心地の燃料会館(現 平和公園レストハウス)の地下室で被爆した野村英三さんは元安川の川べりまで逃げていた。

 

 腰を下ろすまで自分は半分夢中であった。四囲を見渡すと、地上も空も真黒い煙だ。その煙の中に今やっと逃れ出た組合の建物がぼーっと建っている。正面、川向うの産業奨励館も立っている。左向うには商工会議所も見える。煙の下の方から、燃えている炎はだんだん大きくなってきた。しかしまだ前記三つの建物は火はない。しばらくすると、組合の窓枠が燃えはじめた。どの窓も火がついた。そして火は内部へはいった。(野村英三「爆心に生き残る」『広島原爆戦災誌』)

 

 「きのこ雲」の直下は、あたり一面真っ黒い煙。その中に炎が見え始めた。江波山の広島地方気象台は、「火災は爆発後5分を経過してから市中に点々と煙が立ち始め」と観測記録に書いている。(広島管区気象台「気象関係の広島原子爆弾被害調査報告」1947 )