戦争の足音1 父の手記1 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 1950年7月1日、よそに負けじと都谷村 (つだにむら 現 北広島町内)の青年団も機関誌『青年』を発行した。初代編集長は私の父、当時21歳の精舎法雄(しょうじゃ のりお)。同年9月に父親(私の祖父)が66歳で急逝したため寺の住職を継がなければならなくなり、編集したのは2回だけだった。

 しかし寄稿は何度もしている。『青年』創刊号には「逆境は恩寵なり―我々は不幸の中より幸福を見出した―」を書いた。今手元にある『青年』13冊の中に見られる唯一の被爆体験記であり、戦争についての考察である。

 被爆当時父は崇徳中学4年生。3年生の時からずっと南観音町(現 観音新町)にある三菱重工広島機械製作所に動員されていた。8月6日、工場で作業を始めてすぐに突然白く光り、続けてものすごい衝撃が襲ってきた。しかし、父にとってその日一番衝撃的だったのは、学校のある楠木町で出会った後輩の無惨な姿だった。

 

 学徒動員で工場に居た私は夢中になって煙の中をくゞりながらやっとの事で宿舎へ帰りついて見ると建物はすでに焼け落ちてゐた。折から降って来る雨にぬれながら茫然としてゐるところへ全身見る影もないほどやられた子供が私の名を呼び乍ら近づいて来た。

 「だれ?」「眞崎です」

 「え?眞崎君か」

 名前を聞いた私もそこにゐた友達もあらためてその姿を見なほしたのである。

 だれかわからぬほどにやられたこの子供はその日の朝まで寄宿舎の同室で共に寝起してゐた一年生であった。その眞崎君もまもなく息をひきとって行った。

 「あゝ戦争とはこんなに悲惨なものであり人間を不幸にするものであろうか我々は何のためにこんな事をしなければならなかったのか」

 この言葉は当時の誰もがつぶやいた事であろう。そしてもう二度と戦争はすまいと決心したのである。(精舎法雄「逆境は恩寵なり―我々は不幸の中より幸福を見出した―」都谷中央青年団『青年 創刊第1号』1950)

 

 父は後輩の傷ついた姿を見て初めて戦争の悲惨さを知ったと感じた。同年代で同じようなことを書き残している人がいる。被爆当時広島一中1年生だった片岡脩さんだ。

 

 比治山に向ってどんどん逃げて行く多くの人たちにも、ずっと後れてしまった。身にまとう物さえ何一つない腫れ上った母親が、火傷と傷でもう息の絶えている子供を固く抱きしめて、狂気の如く叫びながら走って行く。暗紫色に腫れ上った体を、道路の両脇の溝、あるいは防火用水の中に浸したまま死んでいる学生、そして女。倒壊した家屋の中から首から上だけ出して、助けを求めて叫んでいる人々…。

 これを見た時、私は戦争の正体に戦慄した。それは“この世”ではないのだ。地獄だ。(長田新編『原爆の子 広島の少年少女のうったえ』岩波文庫)

 

 さらに言えば、後年、二人とも原爆の放射能による残酷さをさらに知ることとなった。文字通り、骨身にしみてわかったのだ。