爆心地ヒロシマ92 広島西警察署 | ヒロシマときどき放送部

ヒロシマときどき放送部

2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

大手町の広島県民文化センター

 産業奨励館、今の原爆ドームは爆心地からの距離160m。それに対して広島西警察署は爆心地の島病院(現 島内科医院)の東隣だ。しかし今や全く知られていない、いわば「消えた爆心地」ではなかろうか。

 かつての広島西警察署は、現在は広島県民文化センターが建つ場所にあった。木造二階建てだったから原爆の衝撃波で一瞬にして圧し潰されたに違いない。そしてすぐに火が出たはずだ。『広島原爆戦災誌』によると、中にいた人は61人とも67人とも言われているが、それ以上確かなことがわからない。全員即死と見られている。

 ひとつ記憶されているのが、広島復興の立役者の一人で「原爆市長」と呼ばれた浜井信三さんが、亡くなった西警察署長の松本佐四郎さんに感謝の言葉を捧げていることだ。松本署長は浜井信三さんの言うところの「握飯作戦」の発案者である。

 当時広島市の配給課長だった浜井さんによると、広島市が空襲に遭った時は市内の焼け残った国民学校で炊き出しをする計画だった。しかしある時松本署長が浜井さんに、それは机上の空論だと言ってきた。いざという時は市周辺の町村で握飯を作ってもらって、あとで市が米を支払えばいいというのだ。浜井さんもすぐにこの案に乗った。

 原爆が落ちた日の翌日、市役所には周辺の町や村から次々と炊き出しの握飯が運ばれてきた。浜井さんたちは市役所にやって来た町内会や職場の代表にそれを配り、道ばたに倒れている人にはトラックを出して一人一人手渡ししてまわった。

 広島城本丸跡の中国軍管区司令部に動員され地下壕にいて奇跡的に助かった恵美(旧姓 西田)敏枝さんは、6日の夜、牛田の不動院で一夜を過ごした。

 

 しばらくして「おむすびですよー。」といって起こされ、たくわんとおにぎりを食べた。町民の人が作ってくれたのでしょうけれど、とてもおいしかった。そして有難かった。(「通信室・終戦まで 」恵美敏枝『炎のなかにー原爆で逝った旧友の25回忌によせてー』旧比治山高女第5期生の会)

 

 しかし大火傷をして息も絶え絶えの人にとっては、当時貴重な白米の握飯であっても、のどを通るものではなかった。

 

 婦人たちの手でたき上げられた飯が手早くむすびに握られる。しかし、それが失敗とわかってむすびは再度、ゆるい粥に煮かえされた。手を焼かれ、顔を焼かれた負傷者にはむすびを口に運ぶことも噛むこともできなかった。粥をいれたバケツを提げて、倒れている負傷者の口にしゃくしで粥を流しこむのは小学生の役だった。「いいか、死んだもんにはやらんでもええだぞ」そんなことを念を押す年よりもいたが、いわれるまでもなく、大人でも正視することのできない怖ろしい死体には子供達は近よろうともしなかった。(肥田舜太郎『広島の消えた日 被爆軍医の証言』日中出版1982)

 

 そこに確かに人がいたのなら、あとに何かしら残るもの、伝えていくものがあるに違いない。広島に原爆が落ちてから10日間、多くの被爆者の命をつないだのは原爆で即死した松本佐四郎広島西警察署長発案の「おにぎり」「おむすび」だった。この「握飯作戦」だけが事前の防空計画で、ただひとつ役立ったことだと浜井さんはいう。(浜井信三『原爆市長 復刻版』シフトプロジェクト2011)