爆心地ヒロシマ64 「黒い雨」の正体10 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 井伏鱒二の『黒い雨』にちょっとだけ戻る。

 閑間重松は千田町の借家が原爆で焼けたので、妻のシゲ子、姪の矢須子と共に広島市の北の郊外、古市(現 広島市安佐南区古市)にある勤務先の工場に向かった。火災の後の街は熱気がひどく煙ももうもうと立ちこめていたが、何とか工場までたどり着くことができた。

 そして9月になってから「被爆日記」を書き始めるのだが、シゲ子と矢須子が聞いてきた話として、7日に救護で市内に入った人がひどい倦怠感を訴えて「軽い原爆症に冒されている」と書いている。小説『黒い雨』に「残留放射能」の話が出てきたのだ。

 そういえば『黒い雨』には冒頭から、原爆に遭遇した「甲神部隊」の救助に消防団と青年団が出動したことをさらっと書いている。

 「甲神部隊」の正式名称は「広島地区第二四特設警備隊」。特設警備隊とは戦争末期「本土決戦」に備えて在郷軍人や徴兵前の青年を召集した部隊だ。広島県内では28隊つくられたが武器は貧弱で、実際やったことといえば広島市内の建物疎開作業だった。

 「甲神部隊」は広島県東部の甲奴(こうぬ)郡、そして重松の生まれ故郷小畠村のある神石(じんせき)郡で編成され、隊員は約300人。8月4日から建物疎開作業を始め、6日も広島城本丸跡近くの兵舎から出動しようとした時に原爆の閃光を浴びた。

 『黒い雨』では、6日夜遅く小畠村の消防団員(当時は警防団)16名が「甲神部隊」の救護班として広島に向い、また10日には郡内の保健婦12名が出発した。これらが事実に即したものか確かめることができていないのだが、次の「残留放射能」による被害は他にいくつもの証言がある。

 

 帰郷後の保健婦たちは、なかには被爆患者と同じように下痢したり、少しは頭髪が抜けたりするようになる者がいた。しかし治療法もなければ薬もない。(井伏鱒二『黒い雨』新潮文庫)

 

 『黒い雨』でシゲ子と矢須子が聞いてきた中には県北の三次(みよし)高女の生徒の話もある。徴用で広島市に出た生徒は原爆で「みんな即死」だったという。私の母はそんな話は聞いていないというのだが。

 当時三次高女3年生だった私の母は「入市被爆者」だ。被爆者手帳には8月18日に銀山(かなやま)町とある。広島市内の銀山町にあった広島東警察署・臨時県庁に集合したのだろう。

 救護で広島に向かった三次高女の生徒は約200人とされる。8月25日まで各地の救護所に分散して被爆者の救護に当たった。

 

 私は旧制女学校3年の8月、被爆者看護の為集団入市、近郊の小学校に分かれて負傷者の食事や看護補助を行ったのです。校舎の板間に足の踏み場も無く横たわった人が次々と亡くなり、それを校庭に積み上げて焼く光景、被災者の傷にうじが湧きうめく人々、15歳の頭の中は真っ白となり、どんな手伝いをし、どんな数日を送ったか記憶も定かでありません。(精舎悦子「子や孫へ」NHK広島「ヒバクシャからの手紙」)

 

 私の母が配属されたのは市東部の矢賀国民学校だったが、4年生の大江賀美子さんが救護に当たった場所は市内中心部の本川国民学校だった。西条町(現 東広島市)の救護隊員の証言がある。

 

 殊に本川国民学校収容所の患者は悲惨であった。床の上にゴロ寝している患者は、みな灰をかぶっていて、一見して生死の区別がつかなかった。(『広島原爆戦災誌 第四巻 賀茂郡西条町』)

 

 そして大江さんたち23人は一週間、「毎日寝る暇もないくらい、ほこりまみれになって働きました」(「中国新聞」2006.8.2)と証言される。