爆心地ヒロシマ63 「黒い雨」の正体9 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 中国新聞の「ヒロシマ20年」を、被爆者の誰もが好意的に受けとめたというわけではなかった。

 

 「“ヒロシマ20年”の連載記事をすぐやめてください」―被爆した娘を持つ母親から届いた一枚のハガキ。なぐり書きの文字は、二十年間、消えることのない被爆者の苦しみ、もだえをたたきつけたようであった。(中国新聞社『証言は消えない―広島の記録1』未来社1966)

 

 別の被爆者も「記事にしないでくれ」と言ってきた。その人は原爆孤児で、養護施設で育った。大学を出て就職をしたら、職場では施設の出身ということだけがクローズアップされたという。結婚や就職。そこには被爆者に対する差別の現実があった。

 被爆したことを知られたくないと身を潜め、声をあげることにためらう人は多かった。「訴えれば同情を買い、ねたみや中傷も買う」のだ。同情は、被爆者よりも自分が高みに立っているからこそ。被爆者が声をあげたり、運動の成果が少しでもあったりすれば、すぐにそれは妬みや中傷に転化した。

 中国新聞の記者は、被爆者を取り巻く社会や平和運動のあり方にこそ問題があると考えた。そして、被爆者の悲惨を自分のこと、そして全人類のものとして受けとめていくには、まずは原爆とは何かをすべての人の前に明らかにしていく必要があると訴えた。

 病理学者として「原爆症」に向き合った杉原芳夫は1964年の原水禁世界大会でおこなった問題提起の中で、「被爆者の病気を明らかにすることは、人類の脅威となりつつある放射線障害を解明する上で、怠ることのできない緊急な事業」だとした上で次のように訴えた。

 

 「被爆者の真の実相を明らかにしなくて、たんに悲惨さを強調することで被爆者を救援し、原水禁運動を推進する一つの手段にすることは、同時に被爆者自身の立上る気力や、闘う意欲をなくすおそれがあります」(杉原芳夫「病理学者の怒り」山代巴編『この世界の片隅で』岩波新書1965)

 

 同情、妬み、忌避、忘却…。被爆者を取り巻き、渦まく様々な感情。原水禁運動の中にも被爆者救済と言いながら、実はその願いを置き去りにするような動きもあった。けれどその中にあって連帯して真実を見極めようとした多くの人の奮闘があったこともまた確かだった。

 中国新聞の「ヒロシマ20年」は1965年の「新聞協会賞」を受賞する。広島の「キノコ雲」や原爆ドームに代表される廃墟のイメージを打ち破り、生身の人間の姿や声を世界に届けようとした努力への評価だっただろう。

 だが、広島・長崎でまだ解明できていないことは多かった。中国新聞が同じ1965年の10月から1か月間連載した「原爆症二十年」にはこう書いてある。

 

 …原爆一時間ごろから死の灰を含んだ真っ黒い雨が市の西北部に降ったため、この地域では、二倍の強さであったと推定される。その放射線が、体外からどのような影響を与えていたかをみると、十四年間ずっといたとしても〇・一八レントゲン。雨の降った地帯でも〇・三六レントゲンであり、分裂生成物による影響はほとんど問題にならないと考えられる。(中国新聞社『炎の日から20年―広島の記録2』未来社1966)

 

 放射線量の測定結果と、放射線の外部照射の実験結果を突き合わせたらそうなるのだろう。しかしこれでは「黒い雨」の被害者は無視されることになる。「内部被曝」が人体にどのように影響するかについては、まだまだ推定が困難な時代だった。