爆心地ヒロシマ2 直径3マイル以上の市街地2 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

相生橋に照準を合わせた航空写真(広島平和記念資料館)

 『原爆災害ヒロシマ・ナガサキ』(岩波書店1985)に「被爆時の広島」の地図がある。この地図によって当時の広島市内の家屋密集地の分布が分かるので、この地図に直径3マイル(約4.8キロメートル)の円を描きいれてみた。

 円の中心は市内中心部にあるT字型が特徴の相生橋だ。広島平和記念資料館にはアメリカ空軍歴史研究センターが所蔵する「原爆投下用の広島の航空写真」の複製が展示してあるが、縦横の赤い線が相生橋の上で交差しているのが確認できる。

 この橋を狙って高度9600mから原爆は投下され、実際には島病院(現 島内科医院)の上空600mで炸裂した。この爆心地と相生橋中央部との距離はわずかに300m。

 円を描いてみてわかったことがある。家屋密集地だけ塗りつぶしてみると円の中にかなりすきまができるのだ。吉島、舟入、観音のそれぞれ南部、広島市内西部の中広といった地域にはまだ田畑も多く、中広の西側はもう山がひろがる。

 相生橋から南東に2.9km、円のわずか外側になるが、今は巨大な4棟のレンガ倉庫だけが残る当時の広島陸軍被服支廠のまわりの風景は次のように描写されている。当時は畑や蓮根を栽培する蓮田がひろがっていた。

 

 夏から秋にかけては、瑠璃色の茄子や、反りかえった若緑の胡瓜が葉䕃に見え隠れする畑も、いまは低く平らになって、霜除けの藁が敷かれている。畦道に露草が咲き、ピンポン球ほどの小さな青蛙が飛び始めるのは半年も先のことだ。西瓜や味瓜の畑は、いつのまにか南瓜畑に変えられている。(竹西寛子『管絃祭』新潮社1978)

 

建物が密集する中のレンガ倉庫

 

 今とは全く違った田園風景がそこにはあった。

 原爆投下目標地点を少しずらしてみたらどうだろう。広島の陸軍を統括する中国軍管区司令部のあった広島城本丸跡なら、上空から見れば堀に囲まれてまるで四角い的だ。

 しかし円を描きなおしてみると、今度は円の中に北側の山々がぐんと入りこんできた。これだと山火事をおこすために原爆を落とすことになってしまう。

 結局のところ、直径3マイルという最低限の広さの円内であっても、広島の場合は家屋で埋めつくされることはなかった。「最初の原爆は破壊効果が隅々まで行き渡る都市に落としたかった」という原爆計画責任者レスリー・グローブスにとっては少々不満だったに違いない。

 ではなぜ広島市が原爆の最初の標的として選ばれたのか。グローブスはこう言っている。

 

 「広島はきわめて重要な軍事目標であった。陸軍司令部は城跡に設置され、約二五、〇〇〇人の兵力が各地に駐屯していた。それは、九州と本州を結ぶ補給と運輸交通の中心地宇品をひかえていた。広島は京都を除いて、空襲によってまだ損害を受けない最大の都市であった。人口は三〇万を越すものと信じられており、中程度の規模の工場と小工場・ならびにほとんどの各民家でも、せっせと精を出して軍需工場の、さながら蜂蜜の巣の観を呈していた。」(『広島原爆戦災誌』)