『耳鳴り』以後15 灯籠流し | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

灯籠流し

 1953年9月に乳がんで来春までの命と聞かされた正田篠枝だが、命を保ってそれから2度の正月を迎えた。しかし、がんは骨に転移し体の痛みは日毎ひどくなっていった。

 

 ガラス戸を透して夜の川を見ぬなにゆえかくも体痛むや

 

 人さまの手を借りずには起きることむつかしくなり夫(つま)欲しかりき

 (正田篠枝遺稿編集委員会『百日紅―耳鳴り以後―』文化評論1966)

 

 それでも1965年3月6日の日記にはこう書いている。人が正田篠枝の思いを知りたいと会いに来るのだろう。

 

 「三月六日 世界情勢が心配なので、関心が深められ次から次と面会しなければならず困ったことだ。でも、こうした人たちを粗末にしてはならない」(「中国新聞」1983.11.11)

 

 この年2月1日には原子力潜水艦「シードラゴン号」が佐世保港に2度目の入港をしており、正田篠枝も歌で怒りをあらわにしている。ベトナムではアメリカと当時の北ベトナムの対立が頂点に達し、アメリカ空軍は3月26日から北ベトナムに大規模な爆撃(「北爆」)を開始した。また南ベトナムにはアメリカの地上部隊が大量に投入され戦争がますます泥沼化していった。

 遺稿集『百日紅』の「あとがき」に記されている情景はそのころのことであろうか。

 

 「幸福でいる人はわたしなんかのところへ訪ねてきたりはしません」そういってどんな見知らぬ人間でも部屋に招きいれ、もう不自由になってしまった痩せおとろえた手で、ハッサクの皮をむきながら、しみじみと語り合い、一緒に涙をながすのがつねであった。正田さんが下宿業を営み、棲んでいた広島御幸橋のたもと、平野町河畔荘の扉はいつでも開かれていて人を拒むということがなかった。(『百日紅―耳鳴り以後―』)

 

 命を削って人とのつながりを求めた正田篠枝。息を引きとったのはその年の6月15日。54歳だった。

 6月17日の葬儀の日、東京から駆け付けた歌友の月尾菅子の目に映ったのは、正田篠枝の自室に安置された棺のそばに仕えるかのように黙坐していた栗原貞子の姿。棺の上にはたくさんの折り鶴。火葬場では誰からともなく「原爆許すまじ」が歌われた。

 その年の8月6日は原爆から20年目にして初めての雨、それもひどい暴風雨だったと、栗原貞子からの手紙が月尾菅子のもとに届いた。でも夕方には雨はやみ、栗原貞子、浜野千穂子、それに詩人の荏原肆夫(えばら のぶお)、藤井ゆり、ルポライターの石田郁夫ら正田篠枝と親しかった者5人で灯籠流しに出かけた。

 「珠光院釈妙誓信女」。正田篠枝の法名(ほうみょう)が書かれた灯籠を川面に浮べると、灯籠は静かに流れていき、ほかのいくつもの灯篭と一緒になり、ゆっくりと夜の向こうに消えていった。(月尾菅子『正田篠枝さんの三十万名号』藤浪短歌会1968)

 1年後、正田篠枝の遺稿集『百日紅―耳鳴り以後―』が世に出る。その中に、まるで正田篠枝がこのために詠んだかのような歌があった。

 

 みなさんの心にふれて役にたつものであれかし祈りて止まず

 (『百日紅―耳鳴り以後―』)

 

 ヒロシマの歌といえば正田篠枝を思い出す。そんな人がひとりでも増えてもらえれば、ありがたい。