さんげの世界62 歌人の眼5 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 栗原貞子は1959年8月21日付の「中国新聞」に「正田篠枝さんへの手紙―『原水爆時代』を読んで―」を寄稿した。それは正田篠枝への最大級の賛辞だった。

 

 …あなたの歌を拝見して、極限的な原爆地獄に体あたり的にぶつかり、そのものをすばりとつかみ、切りとって、これを見よと犯罪を告発された人間的な怒りは従来の短歌の形式や技巧では、全然間に合わぬ巨岩の塊りのような重い真実がこもっております。(栗原貞子「正田篠枝さんへの手紙―『原水爆時代』を読んで―」『どきゅめんと・ヒロシマ24年』社会新報1970)

 

 栗原貞子は可部高等女学校時代から詩と短歌を新聞に投稿し、卒業後に山本康夫が始めた短歌誌『処女林』(後に『真樹』と改題)の同人となっている。その栗原貞子が、原爆への怒りを歌うには「従来の短歌の形式や技巧では、全然間に合わぬ」と、短歌を切って捨てたのだ。

 栗原貞子は当時広島市郊外の祇園町長束(現 広島市安佐南区長束)で原爆に遭っている。爆心地からは4km。戦時中に秘かに書きためた反戦詩歌をおさめ1946年8月に出版した『黒い卵』(1983年に人文書院から完全版を出版)から短歌をいくつか拾ってみる。

 

 裏畑に青白き光ひらめけり照明弾かと思い見しかど

 

 壕の中ゆ這い出で見れば我が家の戸障子は飛び天井落ちぬ

 

 上の子が妹をつれてかえりおり吾に馳せより泣きつゞくるも

 

 子らよ、子らよ、よく無事なりし、しつかりと二人の子らの手を握り締め

 

 怪奇なる積乱雲の雲の峰子らは怯びえて我ゆ離れず(栗原貞子『黒い卵』人文書院1983)

 

 やがて長束にも見るも無残な姿の負傷者が続々と市内から逃れてきた。

 

 のがれ来る人おのおの火傷して衣は肉に焼きつきており

 

 傷つかで真裸のまゝのがれ来し少女に子らのパンツあたえぬ(『黒い卵』人文書院)

 

 8月9日には、隣家の人が娘の遺体を引き取りに行くのを手伝って己斐国民学校に向かった。その時見た光景は短歌12首に詠み「悪夢」と題して『中国文化 原子爆弾特輯号』(1946.3)に載せている。そして、その中の一首は1946年2月10日に開催された「原子爆弾犠牲者追悼合同短歌会」で歌った。

 

 収容所ゆ死体引き取りかへる道街々は火葬に明るかりしも

 (栗原貞子編『「中国文化」原子爆弾特集号復刻並に抜き刷り』1981)

 

 栗原貞子はそこで発表された原爆歌に不満を感じた。自分の歌も含め、そこには「呪詛も怒りもない」のだと。そして、「短歌はその性格上、どのような目をおおう人間悲惨も驚天動地の事件も、三十一文字の中に破綻なくまとめ、諦念の微光をほどこして手工業的完成をしめす宿命と伝統の方法である」とし、「三千万度の熱にやかれた人間悲惨をまともにとりあげてうたうことは不可能」だと観念した。

 しかし、正田篠枝の「さんげ」は違ったという。

 

 この不可能にいどんだのが正田篠枝さんの非合法出版歌集「さんげ」(ニニ年)ではなかっただろうか。彼女はやまれぬ愛と怒りを燃して全身的に状況を受けとめ、なりふりかまわずにうたいあげたのだった。(栗原貞子「回想『中国文化』原子爆弾特集号をめぐって」『どきゅめんと・ヒロシマ24年』社会新報1970)

 

 4人の歌人の意見を見てきた。正田篠枝の原爆歌集「さんげ」。今私たちはこの歌集をどう受けとめればいいのだろう。