山隅衛に「これは短歌ではない」と言われた正田篠枝だが、あきらめきれなかった。春になってもう一人の師である杉浦翠子(すいこ)をはるばると軽井沢の疎開先に訪ねた。『耳鳴り』によれば、その時正田篠枝は「なにかにとりつかれたような思い」であったという。
正田篠枝が携えてきた原爆歌39首は、「唉! 原子爆弾」として杉浦翠子が主催する短歌誌『不死鳥(ふしどり)第七号』(1946.8)に掲載された。杉浦翠子は絶賛した。
この歌はこの作者の体験である。私はこの歌を読むのに眼がいくたびか涙で曇つた。すすり泣いて。これまで原子爆弾の実況はいくたの散文で読んだ。しかしこの歌ほど私を泣かせるほどの力はなかつたのである。(中略)世の崇古学者よ、万葉女流歌人にのみ陶酔し給ふな。現代の女流歌人が如何に新境地を開拓してゐるであらうか」(『不死鳥 第七号』 水田九八二郎『目をあけば修羅―被爆歌人正田篠枝の生涯』未来社1983より)
杉浦翠子は正田篠枝の原爆歌を「新境地を開拓」したものとして讃えているが、翠子自身が歌の世界でひとり道を切り開いてきた人だった。堀場清子の『禁じられた原爆体験』(岩波書店1995)に詳しい。
をのこらと詩魂をきそふ三十年みちの小石もわが歌に泣け(杉浦翠子)
そんな杉浦翠子だからこそ正田篠枝をしっかり励ましたとしても不思議ではない。
杉浦翠子の歌風は「主知」を標榜し、知性を持って時代、社会へ目を向けることを主張したと言われる。そして、こんな歌を詠んでいる。
女権つよき国とたたかひて負けにけり 日本のをのこ顔色もなし(杉浦翠子『日の黒点 敗戦百首歌集』私家版1946)
また正田篠枝は後年「私の好きな歌」を求められ、杉浦翠子の次の歌を選んでいる。(深川宗俊「ひとつのあかしを無数のあかしに」『短歌雑誌 青史 119号』1967.1)
貧しきは遂に貧しく富みたるはいよいよ富たり。明治このかた(杉浦翠子)
正田篠枝は、この歌は短歌の持つ抒情のわくを破り、現実のすがたを鋭く見つめて時代性を掴んだ歌だと評価している。それは正田篠枝自身「さんげ」以来ずっと求めてきたものでもあったのだ。杉浦翠子もまた正田篠枝の原爆歌の中に社会を見つめる強い眼差しをはっきりと感じたに違いない。
私は杉浦翠子の次の言葉にも魅かれる。1945年8月発行の『不死鳥 第一号』に載せられている。敗戦間際の社会の空気も生活も逼迫した中であっても、ひたすら愛する歌を守ろうとする決意。
…ああ私達は私達の感情を愛しませう。さうして自己の感情を愛する人は亦他人の感情をも尊重することの当然である。然して人間感情の表示こそ短歌文学のみちである。(杉浦翠子「不死鳥発行に就て」『不死鳥 第一号』1945.8)
子をひとり焔の中にとりのこし我ればかり得たるいのちと泣きをり
燃える梁の下敷の娘財布ささげ早く逃げよこれ持ちて逃げよと母に
可憐なる学徒よいとし瀕死のきはに名前を呼べばハイッと答へて
いづれにも最後のさまを問ふすべはなし全滅の校舎に真向ひて泣く
(正田篠枝「唉! 原子爆弾」抜粋 水田九八二郎『目をあけば修羅―被爆歌人正田篠枝の生涯』未来社1983より)
杉浦翠子は自分の感情ばかりでない、他人の感情の尊重も訴えた。そして正田篠枝は誰よりも人の発する嘆きの声に耳を傾けた。そして、「ここに泣いている人がいる」と、歌で世に訴えた。