広島二中の慰霊碑
正田篠枝は御幸橋の近く、平野町の自宅で被爆した。爆心地からの距離は2km。
ピカッ ドン 一瞬の寂(せき) 目をあけば 修羅場(しゅらば)と化して 凄惨(せいさん)のうめき
目の前を なにの実態か 黄煙が クルクルクルと 急速に過ぎる
「一瞬の寂」。寂(せき)は「しずか」「寂しい」の意味。寂しいのは心の中で何かが失われたから。寂を仏教では「じゃく」と読む。例えば「寂滅」。寂は、死につながる静けさか。
『広島原爆戦災誌』には次のように書かれている。
田中隆雄の体験によれば、平野町広鉄用品工業会社事務所で、炸裂にあったが、黄燐焼夷弾のようなものが、御幸橋と角倉家との中間ぐらいのところに落ちて炎と化したように思った。(中略)
閃光は直接には見なかったが、黄燐弾の炎上と思ったときも音はなかった。しばらくして音がした。一瞬気を失った。(『広島原爆戦災誌 第二巻』)
正田篠枝も実は気を失ったのかもしれない。けれど後になって、一瞬死の世界に入り込んだと思ったのではなかろうか。
「ピカッ ドン」については、当時広島逓信病院院長だった蜂谷道彦が8月11日の日記にこう書いている。
ピカドンという言葉が大流行になった。それでも佐伯の婆ばさんは「ピカや」をやめない。私もピカがすきだ。市内にいた者は、皆、音をきかなかったからだ。郊外にいた者が大きな音をきき、余分のドンを付加えているのだ。我々はピカッと光った稲妻のようなものしかみていない。(蜂谷道彦『ヒロシマ日記』朝日新聞社1955)
しかし蜂谷道彦が被爆した場所も爆心地から1700~1800mで、爆心地からの距離では平野町とそう大きな違いはないのだ。おそらく、「ドン」と同時に人は吹き飛ばされ家は崩れた。音を聞くのが早いか気を失うのが早いか、だったのではあるまいか。
爆心地から2km地点に衝撃波が到達する時間は4.6秒。(朝永万左男等「核兵器使用の多方面における影響に関する調査研究」2014)
「ピカッ」と光って「ドン」と音がするまで、わずかな間があったことになる。正田篠枝が「ピカッ ドン」と詠んだのもうなずける話だ。
ところで、蜂谷道彦が「我々はピカッと光った稲妻のようなものしかみていない」と書いているのを見た時、爆心直下では「ピカッ」さえ、わからなかった人たちがいたのではと思った。
平和公園の本川川岸にある県立広島第二中学校の慰霊碑。その場所ではあの日、二中の1年生が上空にB29爆撃機の姿をはっきりと見た。爆心地からの距離は500m。
下野義樹君は「点呼が終わるのと同時ぐらいだった。退避という声を聞いたあと爆弾が落ちた。川にとびこめ、という声をかすかに聞いて本川にとびこんだ。爆発と同時に、黒く焼けた人が多かった」と、話しています。(広島テレビ放送『いしぶみ 広島二中一年生全滅の記録』ポプラ社1970)
そして爆心地から2km離れたところでも原爆の閃光と爆風は容赦なかった。正田篠枝が目を開けるとそこには変り果てた人の姿が映り、耳には凄惨のうめき声が聞こえてきた。一体、何が起きたというのだろうか。