さんげの世界1 今「さんげ」を読む | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑

 広島市の平和公園の南隣り、平和大通りの緑地帯にある「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」。その台座には正田篠枝の短歌が刻まれている。

 

 太き 骨は 先生ならむ

 そのそばに

 小さきあたまの骨 あつまれり

 

 今、広島でも正田篠枝を知っている人はほとんどいないのではなかろうか。知っているという人でも、この歌以外の短歌を読む機会は果たしてあるだろうか。

 「太き骨は…」の歌は、1962年に平凡社から出版された正田篠枝の詩歌集『耳鳴り』に収録されている原爆歌集「さんげ」から採られた。『耳鳴り』もとうの昔に絶版になった本だが、出版された当時は多くの人に衝撃を与えたという。広島出身の詩人で評論家の堀場清子も、「その時の衝撃が忘れがたい」(堀場清子『禁じられた原爆体験』岩波書店1995)と書いている。

 正田篠枝が自分や周りの人たちの被爆体験を歌にして初めて出版したのは1947年。歌集の題は『さんげ』。100部とも150部とも言われる私家版だった。占領軍による報道統制下でもあり、広く知られることはなかっただろうが、広島の歌人、文学者の中には山代巴や峠三吉など、早くから注目する人もいたようだ。

 新聞で取り上げられたのは1955年12月27日付の中国新聞がおそらく最初だろう。「九十九首で惨状描写 正田さん決死の秘密出版」とある。

 中国新聞の原爆報道で当時中心的存在だった金井利博は、翌年12月7日付の紙面でこう述べている。

 

 昭和二十二年に正田篠枝さんが“さんげ”という原爆歌集を占領軍令下で出した冒険については、昨年の暮れ本紙(朝刊)に紹介され、それが一ばんはじめに出た原爆文集だろうと思っていた…(金井利博「愛の配給」中国新聞1956.12.7)

 

 以後、正田篠枝の『さんげ』は、実情は少し異なっていながら、戦後いち早く世に出た原爆歌集、また、死刑覚悟の秘密出版などといった「枕詞」がついてまわることになる。

 

 …正田篠枝の原爆歌集「さんげ」は、占領軍の許可を受けずに発行された秘密出版である。(「中国新聞」1983.11.1)

 

 こうした評価とは別に、正田篠枝の詠んだ短歌そのものを評価する人たちがいた。著名な歌人で正田篠枝の短歌の師である杉浦翠子は、「さんげ」の原型である「唉!原子爆弾」に寄せてこう書いている。

 

 これまで原子爆弾の実況はいくたの散文で読んだ。しかしこの歌が私を泣かせるほどの力はなかったのである。(短歌誌『不死鳥 第七号』1946)

 

 そして誰よりも正田篠枝の原爆歌をほめたたえたのは栗原貞子だろう。

 

 …あなたの歌を拝見して、極限的な原爆地獄に体あたり的にぶつかり、そのものをすばりとつかみ、切りとって、これを見よと犯罪を告発された人間的な怒りは従来の短歌の形式や技巧では、全然間に合わぬ巨岩の塊りのような重い真実がこもっております。(栗原貞子「正田篠枝さんへの手紙―『原水爆時代』を読んで―」『どきゅめんと・ヒロシマ24年』社会新報1970)

 

 今あらためて正田篠枝の原爆歌を一首ずつ読んでみる。それが今の私たちをどれだけ揺さぶる力かあるのか、確かめてみることにしたい。

 まずは「さんげ」の序歌

 

 死ぬ時を

 強要されし

 はらからの

 魂にたむけん

 悲嘆の日記

 

 この歌を含め、以後「さんげ」の短歌は『耳鳴り』所収のものを用い、出典の記載は省略する。

 なお、私家版の『さんげ』では、「同胞(はらから)」、「魂(たま)」となっている。