ヒロシマの宝もの14~栗原貞子が繋ぐ5 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 1968年9月、一人の日本人アメリカ兵がベトナム戦から脱走したという驚くべきニュースが飛びこむと、栗原貞子はすぐに仲間を募って広島で「守る会」を立ち上げた。その青年は広島の被爆者でもあった。

 青年はアメリカ滞在中に徴兵検査を受けてベトナムに送られた。アメリカで暮らすなら兵隊に行った方が何かと有利だと考えたようだが、現実は甘いものではなく、ベトナムの戦場で死の恐怖を肌で感じた。自分の無知を悔い改め日本で平和な一市民として暮らしたいと、彼は一時帰休で日本に戻ったのを機に脱走し、「ベ平連」を頼った。

 しかし青年は激しい批判にさらされた。「こともあろうに原爆のヒロシマの人間が、アメリカの兵隊になってベトナムに従軍するとは何ごとですか。彼はヒロシマの裏切り者だ、ベトナム戦争の地獄の底まで墜ちるといい」。栗原貞子のもとにもそんな激しい言葉が届いた。(栗原貞子『問われるヒロシマ』三一書房1992)

 しかし小田実らの「ベ平連」は青年を突き離すことはせず、あくまでも彼を守ることを市民に訴えた。アメリカにとって、その青年は罪を犯した自国の兵士であり、日本政府に青年を逮捕しアメリカに引き渡すよう要求するだろう、日本政府は日米安全保障条約によって、自国民であっても、戦争放棄の憲法を持っていても、アメリカの要求に従って彼を逮捕するだろう。彼を守れるかどうかは広範な市民の声にかかっていた。

 そのころ、日本そのものがベトナム戦争に完全に加担していたといっていいだろう。沖縄からは毎日B-52爆撃機が大量の爆弾を抱えてベトナムに飛び立っていった。兵士も大音量のロックミュージックで踊りあかし飲みあかした翌日には沖縄から戦場に向かった。枯葉剤も毒ガスも、そして核兵器も、沖縄に蓄えられた。

 当時沖縄はまだアメリカの支配下にあったが、山口県の岩国基地もまたベトナムに向かうアメリカ海兵隊の後方基地だった。岩国の郊外にあった小さな教会にはベトナム行きが決まったアメリカ兵がやってきて、「人を殺したくない。殺されたくない」と泣く姿が見られたという。(「中国新聞」2015.9.14)

 日本の中にベトナム戦争があり、ベトナム戦争に従軍したひとりの日本人青年の問題はそのまま日本全体の問題だった。12月になってアメリカ政府は政治的な配慮から青年の逮捕を日本政府に要求しないこととしたが、日本の状況が大きく変化したわけではなかった。栗原貞子は、今現在の日本のアジア諸国への「加害」という問題、そしてそれに対して自分たちは何をしなければいけないのかという課題を改めて噛みしめるのだった。