ヒロシマの宝もの13~栗原貞子が繋ぐ4 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 ベトナムの平和を祈ることも、ベトナムの子どもたちに服や靴を届けることも大切なことだろう。けれど栗原貞子はそれで自己満足することはなかった。

 詳しいことを知らないのだが、栗原貞子は1967年頃から広島YMCAで持たれていた「ヒロシマ研究の会」に関わっている。

 

 1968/8/5

 原水禁国民会議の被爆23周年原水禁世界大会が広島市基町の県立体育館で始まる。約8,000人が参加。山田広島市長があいさつ。市民運動グループ「対話の会」(庄野直美広島女学院大教授)、「ヒロシマ研究の会」(小林省三広島YMCA主事、詩人の栗原貞子さん)、「広島ベ平連」(有馬一絋代表)が大会参加者と円卓会議。グループが反戦平和の共同行動を呼びかける「広島アピール」を採択(中国新聞ヒロシマ平和メディアセンターデータベース)

 

 そして同じころ、栗原貞子はベ平連の活動にも加わっていった。

 ベ平連(「ベトナムに平和を!市民連合」)は1965年4月、作家の小田実らの呼びかけで生まれた、規約も会員名簿もないという新しいベトナム反戦運動グループの集まりだ。1967年4月3日付の「ワシントン・ポスト」に掲載した、岡本太郎の筆で「殺すな」と大書した意見広告には栗原貞子のアピールも入っている。

 

 …1945年8月6日、広島は人間に対する最初の原爆実験場として使われました。そして今、ベトナムが同じようにアメリカの新兵器の実験場として使われていることを、私は8月6日の体験を通して実感しています。同じ運命をもつ人間同士として、爆撃にさらされているベトナムの人びとへの深い連帯の上に立って、私は広島から世界に向って叫びます。「戦争をやめよ、ベトナムに平和を!」と。   栗原貞子〈広島)

(ウェブサイト旧「ベ平連」運動の情報ページ ニュース「詩人、栗原貞子さん逝去」)

 

 アメリカの人たちの反応は好意的なものもあれば、激しい嫌悪もあった。

 

 …それから俗悪な栗原オバチャンにいっとこう。「両親はじめすべてを失い、今も放射能で苦しんでます」か。なんてまァ、お気の毒な。俺も涙あふれんばかりだぜ。だけど、真珠湾奇襲で息子や夫を殺された何千ていう母親たちはどうなんだ?オバチャンは、黄色いジャップどもが、手前の望んだとおりのものを手に入れたんだっていうことを知らねえのか、あるいは判らねえのか。やっつけ返す以外に俺たちのすることがあったのかね。嫌悪をこめて。(旧「ベ平連」運動の情報ページ) 

 

 栗原貞子はそれまで「ヒロシマ・ナガサキの体験は最初の被爆地の神聖な使命とし、世界中ですんなりと受け入れられている」と思っていたが、それは錯覚だったと思い知らされた。すさまじい「断絶」がそこにはあったのだ。栗原貞子は、「〈ヒロシマ〉といえば〈パールハーバー〉」(栗原貞子「ヒロシマというとき」1972)と嘆かざるをえなかった。

 しかしただ嘆いているわけにはいかない。「憎悪と偏見」だとして叩き潰しにいくか、それとも目をそらすか。いや、そうではない。栗原貞子は、まず共に手を取り合える人たちに呼びかけた。

 

 アーリントンの森に

 新しい墓標は日毎にふえ

 アメリカのママたちは

 「戦争に息子をやらない」と

 街々を行進する。

 原爆で焼かれた私たちは

 「ベトナムにヒロシマをくりかえすな」と

 呼びかける。

 (栗原貞子「誰のために戦ったのか」部分『ベ平連ニュース』1967年12月号)