被爆者が語りだすまで45~この世界の片隅で4 | ヒロシマときどき放送部

ヒロシマときどき放送部

2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 戦争が終った。広島で所帯を持っていた長女のツル代は原爆で消息不明のまま。長男の虎男は兵隊にとられて沖縄で死んだ。ふたりの子どもには苦労させたまま死なせてしまったという悔いがセキさんの心を痛めた。

 一方セキさんの夫の茂市はというと、荷車引きで辛苦したかいがあってわずかながらも田を手に入れ家を建て、さらに小作していた田が農地改革で自分の物になり羽振りがよかった。

 ところが戦争が終って5年目、茂市は突然血を吐いて動けなくなった。ツル代を探して焼け野原の広島を三日も歩いたからではないかと疑う人は県北の村には誰一人いないまま、茂市は死んでいった。

 実はその10年以上前からセキさんと茂市は仮面の夫婦だった。茂市が60歳のころ、セキさんより年上のオヒナ婆さんを妾にして、ついには家に住まわせてしまったのだ。

 けれどセキさんはそれを許した。離縁だなんだと騒いで二人が村の笑いものになるのはいやだったし、なにより長年荷車を引き共に苦労してきたからこそ、これからの茂市と一緒の喜びを手放したくなかった。

 とはいうものの、セキさんの煮えくり返る気持ちを抑え込むことは難しかった。

 

 仏様へ参って胸をなでて

 「仏様仏様、わしの体にゃ千の鱗が見えるでしょう、頭にゃ二本の角が見えるでしょう」

と口説を言っては、蛇のように仏様の前でとぐろを巻いたり、のたうちまわったりした。(山代巴『山代巴文庫 荷車の歌』径書房1990)

 

 オヒナ婆さんは戦争が終る前の年にセキさんに看取られて死んだ。しかし茂市とは元の鞘に収まることはないままこの世の別れをすることになった。後に残るのはセキさんの心に巣くう悔いと恨みばかり。

 セキさんは、昭和の初めごろの我が家は部落の中でも飛び切り気楽な家だったと思い返した。そのころ茂市は冬に山から切り出した鉄道の枕木をのせるソリの修理をやっていた。三次の方からは気立てのよい男たちが荷馬車に枕木を積みにやって来た。

 

 「あーい、ソリなおしの婆ようー、餅う焼いて出しっしゃあー正月どうー」

と叫んだ。セキさんは炭俵を編む手をやめて、

 「おーい、焼いてあげるでー」

と叫びかえした。(山代巴『山代巴文庫 荷車の歌』)

 

 男たちはセキさんの家のいろり端によってワイワイしゃべりながら焼きたての餅をほおばった。セキさんは荷車引きの生活の中で培ったこの気楽さが何よりも自慢だった。それを思えば、夫が死んだ後の一番の悔やみは、夫が自分をわかろうとはしてくれなかったと思うことだった。

 

 そんなところからセキさんは、自分もわかってもらいたいなら、人もわかってもらいたいのだ。わかり合おうともせずに、なんの幸せが来るものかと思うようになった。(山代巴『山代巴文庫 荷車の歌』)

 

 セキさんは戦後の婦人会の集まりで、それまで自分が隠し続けてきた悔いや恨み、生き恥をすべて打ち明けた。

 それが呼び水となり、近所の女たちともしだいにうちとけて話ができるようになっていく。セキさんは自分の家を何の気兼ねもない近所の女たちの集まりの場にした。セキさんはそこで語り合う中で、人に自分のことをわかってもらおうとし、自分も人のことをわかろうと努めた。

 セキさんは言う。「何よりもわしは、いっしょに暮す嫁や孫が、わしをわかってくれるのが一番の幸せじゃ」。

 山代巴は日野イシさんの語りから生まれたセキさんの物語を県内の農村女性の集まる場に持っていき、そこで磨かれた話が現代の民話とも言うべき小説「荷車の歌」となった。そして県北の村で出会った女性たちのもつ「一途な、焔のようなもの」を宝物にして、1965年、山代巴は再び広島に入って行った。