被爆者が語りだすまで44~この世界の片隅で3 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 セキさんは、ナツノが心を開いて自分を受け入れてくれたのを見習って、自分も人の心をわかろうと努めるようになった。考えてみれば結婚以来セキさんにずっと酷い仕打ちをしてきた姑も、若い時から自分を愛してくれる人、自分を認めてくれる人が誰もいなかった。息子の茂市の「孝行」だけにすがって生きてきたのだ。それゆえ嫁への嫉妬がどれだけ激しくても、姑は他のやり方を知らなかったのだと思うとセキさんは涙が出てくるのだった。

 「荷車の歌」のページをめくりなおして気がついた。茂市から「お母」と呼ばれ、幼い孫娘から「バーバー」と呼ばれたセキさんの「姑」は、「荷車の歌」の中では一度もほんとうの名前が呼ばれていないのだ。おそらく、それは山代巴の意図とするところなのだろう。

 茂市とセキさんには7人の子どもが育った。そのうち5人も女の子で、姑や茂市はたいそう機嫌が悪かったが、ツル代とオト代という上の二人の娘は小学校を卒業すると関西の紡績工場に働きに出て、村の人が目を丸くするぐらい沢山の仕送りをして家計を助けた。

 娘たちは次々と年頃になっていった。茂市とセキさんはツル代を広電の運転手のところに嫁がせることにした。紡績工場をやめて戻ってきたツル代はセキさんにだけ、「どうして私に相談せずにきめたの」と言った。ツル代には好きな人がいたのだ。茂市の顔を立てて、あきらめて戻ってきたのだが、セキさんにだけは言わずにおれなかった。

 

 「私の下にゃオト代もおる。トメ子もおる。スエ子もおる。私ひとりのわがままで、あれらの縁談にどうこういうことがあっちゃあいけん。私は今、誰にもうしろ指をさされんように嫁入りしたいよ、お母さん。私の言うたことを誰にも言うちゃあいけんよ。ね、ね、ね」(山代巴『山代巴文庫 荷車の歌』径書房1990)

 

 ところがオト代は同じ工場で知り合った男と結婚して、二人で食べ物屋を開くといってきた。セキさんは不安だったが、ずっと大金を仕送りしてくれたオト代のお蔭で家が何とか持っていたのだ。「わしもオト代には足を向けて寝られる親じゃない。たまにゃあの子の頼みも聞いてやらにゃあのう、親じゃなかろうよ」と言うしかなかった。

 トメ子は大阪で髪結い修業し、やがて阪急電鉄の運転手と結婚した。スエ子も大阪に出て日赤の看護婦になり、そこの医者と恋愛結婚した。最後に生まれたフク子は広島で陸軍病院の看護婦になった。

 セキさんは結婚してから、姑が元気なうちは姑が「杓子を握っていた」。米や麦、味噌醤油、漬物など何もかもセキさんは出し入れができなかった。ご飯を茶碗に盛るのも姑の権限だったということだ。財布は茂市がすきにした。それに比べて、手に職をつけ給料を自分の手にしたセキさんの娘たちは、しだいに自分の思いを親に認めさせるまでになっていったのだ。