ラジオで敗戦の報を聞いた広島の人たちの中には、どうしてもっと早く戦争をやめてくれなかったのかと思う人も多くいた。中国新聞記者大佐古一郎さんの母親もその一人だ。
なんでひと月ほど前にやめとかなんだかのう。もっと早うやめとったら、あのむごい大勢の人殺しはなかったし、孫の病気がぶり返すこともなかったろうに……。勝つ見込みもないのに無理をし過ぎたんじゃ。……人間無理をすると、必ずばちが当たる(大佐古一郎『広島昭和二十年』中公新書1975)
それは、なぜ戦争を続けたのか、さらに言えば、なぜ戦争を始めたのかという国民の立場からの戦争責任の追求である。しかし当時のほとんどの国民は天皇の戦争責任など思いもよらなかっただろうから、そうなると誰に責任を求めるのか。広島逓信病院院長の蜂谷道彦さんは罵った。
貴様らは陛下を何と思っているか。勝手に戦争をぼっぱじめて、調子のよい時にはのさばりかえって、いざ敗け戦さとなると隠せるだけかくして、どうもこうもならぬようになったら上御一人におすがりする。それで軍人といえるか。腹を切って死ね(蜂谷道彦『ヒロシマ日記』朝日新聞社1955)
その軍人の代表が東条英機であろう。1948年12月に東条英機ら7人が死刑となって東京裁判が終わった。しかし大佐古一郎さんは考える。
(無謀な戦争の)元凶と目される戦犯は連合国の法廷でその責任を問われるが、われわれは自身の自発的な意志で、戦犯はもちろん自分たちの法律的、道義的な責任を解明しなければ本当の反省とはいえないだろう。(大佐古一郎 同上)
日本の諸外国に対する戦争責任は戦勝国によって裁かれたが、日本国民が国民に対する日本の戦争責任を敗戦直後の法廷で訴えることは結局なかった。
1945年9月30日、広島逓信病院に進駐軍の将校がやってきた。将校は広島の惨状を見て蜂谷さんに言った。「私だったら国を訴える」と。
将校が帰った後で、彼が国を訴えるといったことを誰彼なしにいいふらした。国を訴える、国を訴える、繰り返し繰り返し口の中でいってみたが、国情を異にする私にはいくら考えてもわからぬ言葉であった。(蜂谷道彦 同上)
当時、日本国民自身による戦争責任の追及など、ほとんどの人は思いもしなかったことだろう。しかしそれがあいまいなままでは、またいつ無謀な戦争が起きるかわからないと大佐古さんは思うのだった。
そんな心配をよそに世の中は大きく変わっていく。大佐古一郎さんの1945年12月27日の日記。
きのうまでの独裁国家が一夜にして民主国家に変貌すると、軍国主義者はたちまち平和主義者となり敵対は友好に、愛国行進曲はクリスマスキャロルに一変する。(大佐古一郎 同上)
よく言えば日本民族は融通の利く包容力のある民族かもしれないが、国民一人一人の反省から始めて自分たち自身による本当の民主化を進めていかなければ、また一夜にして世の中がコロッと変わってしまうのではないかと大佐古さんは危惧し、「また軍国主義が復活するという不安」に襲われるのだった。