軍都広島55~天皇の写真 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 1945年9月29日、新聞の一面にのった写真に多くの人がびっくり仰天したに違いない。当時の天皇(昭和天皇)が占領軍のマッカーサー司令官と並んで写真に写っているのだ。天皇はモーニングを着て姿勢を正している。隣のマッカーサーはいつものノーネクタイ開襟シャツでリラックスしたポーズ。歌人の斎藤茂吉は日記にこう書いている。

 

 今日ノ新聞ニ天皇陛下ガマツカアーサーヲ訪ウタ御写真ノツテヰタ。ウヌ!マツカアーサーノ野郎 (『齋藤茂吉全集 日記』)

 

 斎藤茂吉は憤慨しているのだ。無礼極まりないということだろう。なにせそれまで天皇の肖像写真は「御真影」と呼ばれ、当時の国民にとっては自分の命よりも大切なものだったようだから。

広島逓信病院院長の蜂谷道彦さんは、広島逓信局が原爆による火事の中、「御真影」を5人がかりで避難させたと聞いている。その途中の道には足の踏み場もないほど多くの死傷者が横たわっていた。

 

 そんなに死傷者が多くて通りにくいところでは「御真影です、御真影です」というと、兵隊はもちろん、動けそうにない市民まで直立して挙手の礼をしたり最敬礼をして、起き上ることのできぬ者は倒れたまま手を合わせて拝む。(蜂谷道彦『ヒロシマ日記』朝日新聞社1955)

 

 それほど当時の国民は天皇を敬愛していたのだろう。当時広島文理科大学助教授だった小倉豊文さんの妻文代さんは爆心地近くで被爆して8月19日に亡くなった。8月15日、小倉豊文さんは文代さんに敗戦を報せた。

 

 お前の枕もとに行って、「とうとう敗けたよ」というと、お前はあおむけになったまま、大きな目をうつろにして、しばらくだまっていたが、やがてつぶやくように、「天子様がお気の毒ね」といったね。そして目にいっぱい涙をためていた。(小倉豊文『絶後の記録』中公文庫)

 

 廃墟の広島であっても市民の天皇への敬愛は変わらなかったようだが、それにしては9月29日の写真の話が体験記にみつからない。峠三吉の日記にもないし、『ヒロシマ日記』や『絶後の記録』にも出てこない。

 小説家の大田洋子が、被爆した年の秋に書いた小説『屍の街』の中でこう言っている。大田洋子は原爆の後、佐伯郡玖島村(現 廿日市市)に避難していた。9月17日、枕崎台風が広島県を襲い、県内各地で大きな被害があった。

 

 ランプの夜は二週間もつづき、新聞は一カ月経っても来なかったから、昼も夜も太古のようであった。太古のような生活の中では村のことしかわからなかった。(大田洋子『屍の街』平和文庫)

 

 中国新聞社も原爆で本社が全焼したうえ、さらに枕崎台風で疎開先の工場が水害にあって、とうとう新聞の発行が完全に停まってしまった。当時はまだ「一県一紙」で、大阪や九州から代行印刷の新聞が入ってくるのは10月になってからのようなので、広島に生き残った人たちが新聞で天皇の写真を見て目を丸くすることはなかったということになる。

 もし見ていたら、どんなことを感じただろうか。やはり敗戦の悲哀だろうか、屈辱だろうか。

ただ、今から見ればということなのだが、あの写真は占領軍司令官のマッカーサーが天皇に寄り添っているようにも見える。以後、天皇の戦争責任をアメリカが問うことはなかった。