日銀広島支店2階天井
以前「紙屋町界隈」というタイトルでブログに書いたが、紙屋町にあった芸備銀行(現 広島銀行本店)で奇跡的に助かった高蔵信子さんが、原爆がさく裂したあとのすさまじい光景を証言しておられる。その芸備銀行のビルが解体されたのが1962年。芸備銀行の隣にあった住友銀行(現 三井住友銀行)広島支店は平和記念資料館に展示してある「人影の石」で知られるが、これも1971年に取り壊され新しいビルになった。
戦後、次々とビルが建設されて誰もが広島の復興に目を見張った。その一方で古く使い勝手の悪い被爆建物はどんどん解体されていったが、そのころは世間の注目を集めることも少なかったようだ。
1965年に中国新聞に連載された「廃墟からの道」には、被爆建物である広島市庁舎についてこう書いている。
オランダ式建築を誇る市庁舎も、三十六年まで、被爆後の姿で、大改修が加えられなかった。市内復興のシンガリとして、地下倉庫を事務室に使わないですむように庁舎整備はやっと終わった。
だが、自家用車時代に、駐車場の余地もない。五十万都市の市民サービスセンターは、また“時代おくれのお役所”と市民の不評をかっている。(中国新聞社『炎の日から20年―広島の記録2』未来社1966)
「時代おくれのお役所」が地下室だけ残して取り壊されたのが1985年だった。中国新聞の方はいち早く1970年に今の三越のところにあった建物を取り壊している。広島市も中国新聞も、被爆建物の保存をと訴えても説得力十分というわけにはいかない。被爆直後に臨時県庁として救援活動の拠点となった銀山町の広島東警察署の建物が解体されたのが1988年。栗原貞子さんの詩「生ましめんかな」の舞台となった千田町の広島貯金支局の解体が決まったのも1988年だった。
それでも市役所庁舎取り壊しのころから被爆建物への関心は市民の間で次第に高まっていった。1988年9月に日銀広島支店の移転が決まると、すぐに「中区文化を考える会」などの市民団体が建物保存を求めて署名活動を始めた。
1990年には、広島市議会が「老朽化の名のもとに次々と取り壊されている被爆建物は、その歴史的財産を後世の広島市民に伝承すべき」と被爆遺跡の保存決議をした。
しかしその年にも広島市信用金庫横川支店の被爆建物が解体され、広島赤十字病院の解体工事も始まった。1991年には今のパルコ本館のところにあったキリンビアホールも取り壊された。
1945年5月4日、中国新聞記者の大佐古一郎さんはドイツ降伏のニュースで暗くなった気持ちを紛らわすためビアホールの行列に並んだ。
先週ここへ来て様子を知ったのだが、このホールは広島市内で売り出す生ビールの七割を売るだけあって、午後五時前には百人以上もの行列ができる。泡を盛り上げた半リットル入りの竹の筒に、つまみ物に干だらが付く。(大佐古一郎『広島昭和二十年』中公新書1975)
大佐古さんがつぎにキリンビアホールに行ったのは5月27日。6月に行った時にはもうビールはなかった。原爆で、キリンビアホールは鉄筋コンクリートの建物だけ残った。
1992年、日銀広島支店の支店長は記者会見で建物を日銀で保存することは考えず、売却する方針であることを明らかにした。2日後、広島市当局は購入費用が膨大であることを理由に日銀広島支店の跡地利用に難色を示した。