旧日本銀行広島支店
広島で原爆がさく裂した日の午後、小倉豊文さんは紙屋町交差点で立ちすくんだ。その朝からあまりの惨状に神経が麻痺したような小倉さんだったが、目にした光景にあらためてゾッとするのだった。そこはかつて大きな銀行や会社のビルが林立した場所だった。
芸備、住友、大同生命、少し間をおいて富国ビル、精養軒、日本銀行支店、それから国泰寺をへだててとびとびに浅野図書館、中国配電、広島市庁舎、(中略)その十字の近代都市的ビル街が、あそこから一望なのだ。他の建物がみんな焼けてしまっているからね。もちろんビル自身もどれも焼けたのだが、焼けたのは内部だけで外廓はそのまま聳えている。並んでいる。しかもその窓からはまだ焔と煙を吐きながら――。何かゾッとするような壮観だったよ。(小倉豊文『絶後の記録』中公文庫)
それらの建物も、今残っているのは日本銀行広島支店だった建物だけだ。あとはみんな取り壊されてしまった。
旧日本銀行広島支店は1936年につくられた鉄筋コンクリート地下1階地上3階の建物である。さすが日銀。とにかく頑丈だった。爆心地から380mという至近距離ながら建物自体はビクともしなかった。
1985年6月、被爆者であり著名な原子物理学者の庄野直美さんがNHKの番組制作で日銀広島支店を訪れた。
「ごついですねえー」
窓から半ば身を乗り出すようにして、壁の厚さをしらべていた庄野さんが、感嘆の声をあげた。
「四〇センチ……いやもっと……厚いとこだと七〇センチくらいありますかね……。これだから、あの衝撃波にも耐えられたんでしょうねえ……。一平方メートルあたり一九トンの風圧ですからねえ、あの時……。それに、……あれだね、この部屋の窓は小さいんですねえ、六つしかないしねえ……」(NHK広島局・原爆プロジェクト・チーム他『ヒロシマ爆心地―生と死の40年―』日本放送出版協会1986)
旧日本銀行広島支店については以前2度ブログに書いた。難波康博さんのお蔭である。難波さんが銀行員を定年退職した後、旧日銀広島支店の警備員をしながら集められた体験記や資料からは当時の状況がとてもよくわかる。
旧日本銀行広島支店はその頑丈さから爆風による破壊を免れ、厚い壁は放射線を遮り、至近距離にあるがゆえに閃光は部屋の奥までは届かなかった。そうした幸運により何人もの命が助かったのだ。
支店は早くも8月8日から一部業務を再開した。そして1992年に基町に移転する。
しかし、旧日本銀行広島支店と呼ばれるようになった建物がすんなりと後世に残されたわけではなかった。