街の記憶4~原爆ドーム2 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

平和記念資料館から原爆ドームを望む

 1949年8月6日に広島平和記念都市建設法が公布され、広島は日本が恒久の平和を実現していく、そのシンボルとなった。この法律により広島の復興はやっと軌道に乗る。

 広島市はこれに先立ち、1949年4月に平和記念公園設計案の募集(コンペ)をおこなった。その募集要項では原爆ドーム(産業奨励館)についても触れている。

 

 …川を隔てた対岸の一部には元産業奨励館の残骸があるが、これは適当修理の上存置する予定である。(広島市「広島市平和記念公園及び記念館設計募集」『建設月報』1949年6月号所収 頴原澄子『原爆ドーム』吉川弘文館2016より)

 

 戦後広島県の都市計画課長だった竹重貞蔵さんによると、原爆ドームは戦後すぐに取り壊されても不思議ではなかった。

 

 原爆の惨状を後世に伝えるものを考えていたが、広島県産業奨励館の壊れたドームがほとんど爆心地にあたることや、その外観から最適と思われたので、中島公園と一体として記念公園を考えることとした。当時、危険建造物整理事業というのがあって、本省から係官が来て査定して予算をつけていったが、その中にこのドームも含まれていた。私は独断でこのドームの取壊しを中止させ、予算を返上した。(竹重貞蔵「49年前を回顧して~広島市の戦災復興都市計画の構想」広島市『戦災復興事業誌』1995)

 

こうして原爆ドームはとりあえず残った。そのドームに注目したのが建築家の丹下健三さんだ。

コンペの結果は1949年8月6日に発表され、丹下健三さんのチームが一等賞をとった。丹下さんたちのプランは公園を公園だけで完結させるのではなく、公園を広島の町と一体化させたところに斬新さがあった。二等のチームに参加していた池田武邦さんが語っている。

 

丹下さんの案を見た時のショックは今でも忘れられません。建物だけじゃなくて、原爆ドームはじめすべてを都市全体の中で考えようとしている。散策路なんかにこだわっていた自分が恥ずかしくなりました。(石井光太『原爆―広島を復興させた人びとー』集英社2018)

 

平和大通りから資料館本館のピロティを通して正面の慰霊碑の向こうに原爆ドームが見える。この広島のシンボル的な景観は最初から当たり前のようにあったのではない。丹下健三さんが試行錯誤の末に見つけ出したヒロシマの景観なのだ。竹重貞蔵さんの原爆ドーム取り壊し中止の決断がここに生かされた。

しかし、原爆ドームの「存置」はあくまでも「予定」だった。その後、原爆ドームを保存するのか撤去するのか、議論は熱をおびるようになった。