街の記憶3~原爆ドーム1 | ヒロシマときどき放送部

ヒロシマときどき放送部

2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 戦後の広島を30年間10万枚以上の写真に記録した佐々木雄一郎さんは原爆ドームへの思いも人一倍強かった。母や兄弟それに親族あわせて13人の命を原爆で奪われた佐々木さんはこう語っている。

 

 幼いころから、この建物を仰いで育ったわたしは、被爆直後の変り果てた姿を見たとき、正直、涙を流した。だが、大空に向って割られた頭蓋をふりたて、両手をひろげて何かを訴えかけているようなドームから、限りない励ましのようなものをも同時に感じた。このドームを除外して、ヒロシマを考えることはできない。以来25年、わたしは原爆ドームに向って、ひたすらシャッターをきりつづけてきた。(佐々木雄一郎『写真記録 ヒロシマ25年』朝日新聞社1970)

 

 正田篠枝さんは1947年に原爆歌集『さんげ』をひそかに出版した。その中に広島の洋画家吉岡一さんが描いた原爆ドームのスケッチがおさめてある。後年(昭和40年 1965年)、正田さんは死の床で次のように語った。

 

正田さんは、四十年春、死の床で「私にはね、死んだあのころの町で、産業奨励館のドームだけが、怒っているようにも、泣いているようにも見えたのよ。いっぱい焼けたビルがあったのにね」と語っていた。(中国新聞社編『炎の日から20年―広島の記録2』未来社1966)

 

また中国新聞によると、広島市出身の小説家若杉慧さんが1948年に書いた未発表原稿の中に原爆ドームの保存を望む思いが記されているという。

 

「爆心地をめぐって」と題したルポルタージュ風の文章で、400字詰め原稿用紙20枚。「兄」と「弟」の会話形式を取り、現在の平和記念公園(中区)周辺の印象が書かれている。

兄弟が廃虚のドームに差し掛かる場面では、兄が「この建物だけは永久にこのまま手をつけないで破壊のままに残して置きたいもんだね。(中略)今日の被害の痕跡はどこにも見られなくなってからでも、いやそうなればなるほど、この建物は象徴的な意味で残るよ、きっと」と語る。(「中国新聞」2015.9.10)

 

原爆の破壊力の凄まじさ、原爆が人々にもたらす悲惨さを原爆ドームは一生懸命訴えている、このままずっと残していきたい…そんな思いをもった人は多かった。

しかし、その一方で一刻も早く取り壊してほしいという人もまた多かった。被爆者の思いは複雑だった。

東京で小説家、劇作家として活躍した畑耕一さんは1944年に広島市郊外の可部町に疎開し、戦後すぐに栗原貞子さんらと中国文化連盟を結成している。その畑さんが1946年2月に中国新聞紙面で「全然新しい広島を」と題して「原子爆弾に対する記憶は史料として書冊に残す以外は一物も新広島の地上にとどめたくない」と主張している。

 しかし戦後数年間はまだ原爆ドームにそれほど関心は集まっていなかったのではなかろうか。市民は日々の生活をどうするかで一杯だったし、市や県はなにをするにも先立つ金がなかった。原爆ドームをどうするかは先送りされ、少しずつ崩れていくドームはただ子どもたちの遊び場になっていた。