日本の罪アメリカの罪28~ABCC2 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 1946年12月、アメリカから4人の研究者が原爆後障害調査のため広島に入り、翌年3月から広島赤十字病院内で被爆者の血液研究が始まった。広島におけるABCC(原子爆弾障害調査委員会)の活動開始である。1950年11月には比治山山頂に、現在もある、かまぼこ型の研究施設が完成した。

 1949年、外科医の原田東岷さんは爆心地から800mの場所で被爆した子どもの血液から巨大化した白血球を見つけた。専門外ながらも「白血病」の文字が頭をかすめ、当時宇品にあったABCCに血液スライドを持っていった。

 

「ルーキーミア(白血病)です」。若い米の病理学者は言った。そして次の言葉に原田医師は耳を疑った。「私はこの病気の発生を待っていた」(「中国新聞」1995.2.12)

 

 広島・長崎ではそのころから白血病患者が急増していくが、ABCCは開設当初から被爆者が癌や白血病などを発症することを予測していたのだ。しかしABCCは治療しなかった。

 1995年、中国新聞の取材班はアメリカで、1946年に原爆後障害研究について科学者や陸・海軍の代表者が意見交換した会議録を発見した。

 

 会議録には「放射線の生物学的・医学的影響の詳細で長期的な調査は、米国と人類にとって、戦時はもちろん、平和利用における産業への影響という点でも重要である。この点で見解が一致した」とある。(中国新聞ヒロシマ50年取材班『ドキュメント核と人間』中国新聞社1995)

 

 ABCCの主な任務は、次の「戦時」に向けた「詳細で長期的な調査」だった。そして被爆者は、調査されるだけだった。

 広島に原爆が投下された時5歳だった原田弘子さんは疎開して被爆を免れたが、女学生の姉は鶴見橋の近くで建物疎開作業中に被爆し、全身大やけどをした。何とか命はとりとめたものの、顔や体にケロイドができ、左手は動かすのが不自由になった。小学校5年生になった原田弘子さんは姉について次のように書いている。

 

 しんちゅうぐんの方からたびたび自動車でむかえにきて、しんさつをしていただきました。でも、いつ行っても、しんさつをするだけで、ちっとも手当をしてくれないので、つまらないと、お姉さんはいつもいっておられます。お母さんは、お姉さんが大やけどをしているので、およめいりができないかもわからないと、いつもいつも心配して、かなしそうです。(長田新編『原爆の子―広島の少年少女のうったえー』岩波文庫)

 

 広島平和記念公園の「原爆の子の像」のモデルである佐々木禎子さんも広島赤十字病院に入院する前にABCCで検査を受け、両親は白血病との診断結果を知らされた。

広島赤十字病院に入院したのが1955年2月21日。入院中に折ったツルは千羽をこえたけれど、同年10月25日、禎子さんは死んでいった。

そして禎子さんの遺体はABCCで解剖された。甲状腺がんを併発していたことがわかったという。(「中国新聞」1995.4.23)

 これからの世界で禎子さんたちヒバクシャをこれ以上生み出さないために、ABCCの長年の調査は何らかの貢献ができたのだろうか。

 1975年、ABCCは改組され、日米共同運営の放射線影響研究所となった。その設立の目的は次のように掲げてある。

 

 平和目的の下に、放射線の人に及ぼす医学的影響およびこれによる疾病を調査研究し、原子爆弾の被爆者の健康保持および福祉に貢献するとともに、人類の保健の向上に寄与することを目的とする。(公益財団法人 放射線影響研究所 定款)