日本の罪アメリカの罪27~ABCC1 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 1951年4月から6月中旬にかけて広島の子どもたち1175名の手記が集められ、その中の105篇が選ばれて、同年10月に『原爆の子』が出版された。

 5歳で被爆した小学校5年の若狭育子さんは次のように書いている。

 

 今から半年前に、十になる女の子が急に原子病にかかって、あたまのかみの毛がすっかりぬけて、ぼうずあたまになってしまい、日赤の先生がひっ死になって手当をしましたが、血をはいて二十日ほどで、とうとう死んでしまいました。戦争がすんでからもう六年目だというのに、まだこうして、あの日のことを思わせるような死にかたをするのかと思うと、私はぞっとします。死んだ人が、わたしたちと別の人とは思われません。(長田新編『原爆の子―広島の少年少女のうったえー』岩波文庫)

 

 広島・長崎の被爆者を震え上がらせた「原子病」(「原爆症」)は、被爆直後からの急性放射線障害と、その後の白血病や癌などがあるが、いずれにしても当時の一般市民にとって、そして多くの医師にとっても未知の、そして十中八九助かるみこみのない恐るべき病だった。

 爆心地から750m離れた堀川町で被爆した移動演劇隊「桜隊」の女優仲みどりさんは広島から東京に逃げかえり、8月16日に東京帝国大学附属病院に入院した。すぐに検査してみると白血球は通常の十分の一以下しかなく、翌日から発熱し脱毛が始まった。そして24日に仲さんは息を引きとる。仲さんの遺体はすぐに解剖され、カルテに「四肢爆創(原子爆弾症)」と記された。(「朝日新聞」2013.8.4)」

 仲みどりさんは、「原爆症患者第1号」と呼ばれる。

 しかしアメリカの原爆開発の責任者たちは放射能の影響を否定した。9月9日に原爆の影響を調査する科学者を率いて広島に入ったファーレル准将は、それに先立つ9月6日に東京で記者会見を開き、次のような声明を発表したという。

  

 広島・長崎では、死ぬべきものは死んでしまい、九月上旬現在において、原爆放射能のため苦しんでいるものは皆無だ(井上泰浩『アメリカの原爆神話と情報操作』朝日新聞出版2018 椎名麻紗枝『原爆犯罪 被爆者はなぜ放置されたか』大月書店1985より引用)

 

 その一方、マンハッタン計画の総責任者グローブス少将は8月24日、広島・長崎で原爆の影響を調べる調査団の任務として次のような秘密の覚書を書いた。

 

 調査団の任務は、被害を確認するだけでなく、放射性物質が(米軍)部隊に影響を及ぼさないようにすることである。(中国新聞ヒロシマ50年取材班『ドキュメント核と人間』中国新聞社1995)

 

 アメリカによる原爆被害調査は、次におこる核戦争のために始まった。

 そして9月19日にプレスコードによって原爆報道が厳しく制限され、11月には原爆被害の研究も占領軍の許可が必要となり、その研究成果はアメリカが独占し秘密にされた。

 「原爆症」に苦しむ被爆者は置き去りにされた。