広島駅の方向に常葉橋を見る
『広島原爆戦災誌』によると、白島地域の東側の住民は警報が出た時などは近くの光明院河原などに避難し、実際に空襲になった場合は京橋川にかかる常葉橋や神田橋を渡って戸坂村や口田村の国民学校に避難することになっていた。大体どの地域も二段構えになっていたようである。(「常葉橋」は「常盤橋」と書かれることも多いが、「常葉橋」が本来の名称のようである)
逓信病院で応急手当てをしてもらった土田康さんは白島の電停からさらに東の常葉橋に向かった。
…常葉橋際にもすでに一段と大火が猛威をふるっていた。土手の官有地だけがまだ火がついていない。京橋川を渡って逃げるより方法がない。土手沿いの民家のわずかなすきまを抜けて、私は川縁へと出た。しかし意地悪く川は満潮時で、川幅一ぱいに水が流れていた。(土田康「きのこぐも」『広島原爆戦災誌』所収)
『広島原爆戦災誌』には常葉橋について次のように書いてある。
常葉橋は、床板が燃えたり、欄干が落ちたりしたが、ほぼ完全であったから、みなこの橋を渡った。ただし、橋の西詰の消防署のガソリンが炎上し、付近の民家に延焼したため、その猛火で渡れない時もあった。(『広島原爆戦災誌第二巻』)
白島九軒町の光明院 夏ミカンの木は被爆樹木
このあたりの河原は近くのお寺の名前から光明院河原と呼ばれていた。干潮時ともなるとかなり広い砂州となったようだが、満潮時の川幅は100m以上もある。普段なら泳げる人でも大けがをしているとなると話は別である。