土田康「きのこぐも」を読む9~白島線終点 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 『広島原爆戦災誌』によると、白島国民学校のあった東白島町は6日午前8時40分ごろに火の手が上がり、午前10時ごろまで燃え続けたらしい。土田さんが逓信病院で応急手当てを受けた後も白島一帯はまだあちこちで炎が渦巻いていた。

 

 …白島一円は、燃え上る火がうず巻いていた。病院前の広い道路を、白島終点へと出た。ここでは、市電が一台横倒しになって燃えていた。即死した乗客が焼けるのだろう。車内から、火葬場と同じ悪臭がムッと鼻をついた。電線はズタズタに切れて、クモの巣のように地上にたれ下っている。路上には、爆風で踏みつぶされたようになった人々が、血を吐いて死んでいる。(土田康「きのこぐも」『広島原爆戦災誌』所収)

 

 広島電鉄白島線の当時の終点は、逓信病院とは100mも離れてはいない。大田洋子も『屍の街』の中で目撃した市内電車の姿を描いている。

 

 電車道に出た。レールはくねり曲って、横へはみ出ていた。一台の電車が茶褐色の亡骸となって、流れ出したレールのうえにとりのこされていた。(大田洋子『屍の街』)

 

 また、広島平和記念資料館に寄せられた「原爆の絵」の中にも白島終点の電車を描いた絵が何枚かある。

 岡崎秀彦さんは6日午後5時ごろ、電車の傍に倒れて死んでいる運転手さん、車掌さんを目撃している。乗客を避難させたあと力尽きたのかと想像されている。

 瀬島唯男さんは7日午後、全焼の電車の車内をのぞいたら、黒焦げで男女の区別もつかない4、5人の乗客の死体があった。死体は座席に座ったままの姿勢で、まるで電車が動き出すのを待っているかのようだったと瀬島さんは書かれている。

 小久保三好さんは、6日か7日か不明だが、電車の乗降口から降りようとする立ったままの真っ黒こげの女性の死体を見た。その足もとにはやはり真っ黒こげの赤ん坊の死体があった。

 三人ともとても印象的な、一生忘れられそうにない光景を描いておられるのだが、それだけに共通点のないのが不思議である。

 実は、被爆してすぐに行われた広島電鉄の調査や1945年秋にアメリカ軍が撮影した写真から、白島線終点近くで被爆した電車は2台だったことがわかっている。白島線終点の約100m南に209号が、さらにその30m南に412号が写真に写っている。(加藤一孝『もう一つの語り部 被爆電車物語』南々社2015)

 どちらか一台の電車にだけ焦点が絞られてしまったのだろうか。しかしこれ以上詳しいことはわかりそうにない。それだけに、被爆直後に見た土田さんの「即死した乗客の焼けていく臭い」は貴重な証言と言えるだろう。(ただ「臭い」については十分あり得る話だと思うのだが、電車が横倒しになったと証言する人は他にはおられないようである)