遅れてきた死5~峠三吉最後の詩1 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 1952年9月発行の『われらの詩』に、峠三吉が「子供の詩は教えるー原爆の詩を選衡してー」という一文を寄稿している。その中で峠は次のように書いている。

 

 原爆症の患者はあとを絶たずひっ迫する市民生活の底で、あの悲劇の惨害は更に深刻に進行している…(峠三吉「子供の詩は教えるー原爆の死を選衡して」『われらの詩16』1952)

 

 1945年9月19日以降GHQにより原爆被害についての報道は厳重に統制され、終戦後日々の生活を営むのがやっとという社会状況の中で、いつしか「原爆症はすでになくなった」という見方が一般的になったという。(中国新聞社編『炎の日から20年ー広島の記録2』未来社1966より)

 「原爆症」が改めて注目されるようになったのは1952年のいわゆる「原爆乙女」の報道からではなかろうか。そして同じ年、白血病についても調査結果が公表された。ABCCはすでに前年の12月、被爆者の間で白血病の発生が増加していることを認めている。

 

1952/9/29

呉市阿賀町の広島医科大学で日本学術会議原子爆弾災害調査研究班の第1回研究協議会開催。後遺症として「疑似白血病が多発」していることを認め、原爆と白血病について広島赤十字病院の山脇卓壮医師が「被爆1年後から発病、3、4年後が発病のピーク」と研究発表(「中国新聞」ヒロシマ平和メディアセンターデータベース)

 

 峠三吉はこうした情報に敏感に反応した。広島の原爆による被害は今も進行している。過去に終わった出来事ではなかったのだ。

 しかし峠三吉が白血病やガンの問題と向き合うには、三吉の命は短すぎた。