遅れてきた死4~治療費 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 久保文子さんは28歳の時看護婦をしていた広島日赤病院で被爆した。ガラス片がいくつも顔に突き刺さって白衣は真っ赤に染まったが、すぐに押し寄せる負傷者の手当てに奔走し不眠不休の日々を送ることとなった。

 その年体調を崩した久保さんはいったん退職したが、1948年秋、ふたたび日赤に復職した。まだ周りは焼け野原の中ポツリとたっている病院にはケロイドや腫瘍に苦しむ患者がひしめいていた。お金に困っている人も多かった。

 

 ペニシリンが出たのは、ちょうどこのころ、一本何千円もして、とても貧乏人には手が出せませんでしたが、この人にも、あの人にも使えたら、と何度、思ったことか。でも、患者に「住所は?」と聞くと「猿猴橋の下」と答えが返ってくるような貧しい時代です。とても無理な相談でした。(久保文子「灼けた白衣」北畠宏泰編『ひとりひとりの戦争・広島』岩波新書1984)

 

 そのころから白血病患者が急激に増えていく。

 2歳の時爆心地から1.7km離れた楠木町の自宅で被爆した佐々木禎子さんの体に異変が起きたのは1954年11月のことだった。おたふくかぜのように顔が腫れ、しばらくすると足に紫色の斑点が出た。白血病と診断された。

 1955年2月21日に広島日赤病院に入院し、同年10月25日、12歳で亡くなった。

 8カ月の入院期間中の度重なる輸血、そして投薬。これらの治療に当時は何の援助もなかった。禎子さんのお父さんは目抜き通りで営んでいた理髪店を手放さざるをえなかった。

 平和記念資料館本館がリニューアル工事に入る前、禎子さんの折鶴を見に行った。ガラスケースの中のいくつもの小さな小さな折り鶴。薬の包み紙で一生懸命おった白い折り鶴。それがライトに照らされてきらきらと輝いていた。申し訳ないけれどオバマ大統領の折鶴とは比較にならないぐらい心に迫った。

 こんなにちっぽけで貧相な折り鶴が当時の被爆者の置かれていた世の中をあらわしている。そして、ちっぽけで貧相な折り鶴が、人を引き込むようにして、原爆絶対ダメを訴えている。

 新しい資料館ではどんな姿で私たちを迎えてくれるのだろうか。