遅れてきた死6~峠三吉最後の詩2 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 増岡敏和は「傷痕」という詩を峠三吉の最後の作品として紹介している。(増岡敏和『八月の詩人』東邦出版社1970)

 それは1952年10月5日の『原子雲の下より』出版記念会の情景を詩にしたものだ。

 

傷痕

 

岡本少年は 読み終る

短い自分の詩を両手で捧げ

読み終って、ひょっこりと頭を下げる

その頭には 大きすぎる禿がある、

 

崩れる家と、母さんの死を、

五歳の頭で、まともに受けた傷あと、

六年生になった今

原爆禿とからかわれる痕がある(峠三吉「傷痕」部分 増岡敏和『八月の詩人』より)

 

 これは過去形の出来事ではない。原爆が落とされてから7年たった「今」も続いているという話である。そのことを峠三吉は受け止めているように私は感じる。

 

そして

きのう日赤六号室で 尾長町の露路で

白血球が異常に抗進してあおぶくれた少年の

ムクロを見送った

広島の眼が、

ぢっと詩をうけとめたまま、

司会者も沈黙に耐える(峠三吉 同上)

 

 「日赤六号室」では医師が死亡診断書を書いて新聞に載るだろうが、「尾長町の露路」ではただひっそりと一つの命が消えるだけである。

 峠三吉は「露路」に入っていこうとした。

 1952年6月ごろ、吉川清が峠三吉を訪ねている。新しい被爆者組織をつくろうというのである。

 吉川清、峠三吉らが中心となる「原爆被害者の会」は1952年8月10日に産声を上げた。

 

 あの日の閃光をこの身に刻みこんでから、私たちの受けた傷あとは消えるどころか、ますます広く深く生活の中にくいこんで私たちを苦しめています。

 このままでいくなら、私たちは永久に廃虚に生えた雑草のかげに見すてられてしまうにちがいありません。

 どうしても私たち自身が立ち上がり、手をつないでいかねば、私たちを守ることはできなくなりました。そこで私たちは多くの平和団体の協力をえて「原爆被害者の会」をここに結成したのです。(原爆被害者の会アピール 吉川清『「原爆一号」といわれて』ちくまぶっくす1981より)

 

 今なお心と体をむしばむ原爆の傷痕。そしてそれに立ち向かい世に向って声をあげる人たち。峠三吉の眼前に現れた光景を、しかし三吉はついに詩にできなかった。峠三吉の死は1953年3月10日。36歳だった。

 吉川清は生前の峠三吉を次のように書いている。

 

 もの静かな男であった。まるで風のようにあらわれるのだった。そして、熱のこもった、だがあくまでももの静かに原爆のことを話しては、また風のように去ってゆくのだった。(吉川清 同上)