米田美津子さんは16歳の時、動員先の広島駅前郵便局で被爆し、左半身頭から足の指先まで火傷を負った。
首には大きなケロイドができて、左右に回らないんです。唇もゆがみ、食べ物がこぼれる。髪の毛も抜けている。被爆から四年後に広島市の義兄に引き取られた後も、銭湯に行くと、子どもが近くに来れば、母親が「近くに行ったらいけん。うつる」と言うんです。(「中国新聞」2001.7.16)
米田さんは原爆で両親も失った。兄夫婦のところに身を寄せて日赤でケロイドの整形手術を受けている時に知り合ったのが吉川清さんだった。
1952年、9名の女性が東京で無料でケロイドの手術を受けるというニュースを聞いて、「九人だけが被爆者じゃない。どうして、みんなが治療を受けられないんだろう」と悔し涙を流した米田さんに、吉川さんは被爆者自身が声を上げ、自ら立ち上がることの大切さを説いた。米田さんは自分の火傷の痕も見せながら、被爆者を訪ねてまわり、街角で署名を集めるようになった。
…吉川清さんに「あんた、悔し涙流したろ。一人でも多くの人にその気持ちをはき出せ。それが被爆者援護法につながる」と言われましてね。この言葉が、息を潜めて生きていた私に強く響いたんです。
(「中国新聞」2001.7.16)
18歳だった阿部静子さんは平塚町で被爆して大火傷を負った。口はゆがみ、顔は赤く腫れ上がって近所の子どもたちからは「赤鬼」とはやし立てられた。
しかし、復員してきた夫は、親族からいくら離縁を勧められても頑として受け入れなかった。夫のやさしさが阿部さんの生きる力となった。
阿部さんが吉川清さんと出会ったのは1952年7月のことだった。以後、阿部さんも吉川さんと行動を共にし、1956年3月には被爆者援護法の制定を求める陳情団の一員として東京に向かった。
後に首相となる池田勇人など陳情してまわったが反応は鈍かった。帰りの夜汽車、このままでは終われないと陳情団の誰もがそう思っていただろう。
阿部さんも眠れない中、短い詩を書いた。
そしてその紙片を吉川さんに手渡した。
(吉川清『「原爆一号」といわれて』ちくまぶっくす 「朝日新聞」2016.3.16)
悲しみに苦しみに
笑いを遠く忘れた被災者の上に
午前10時の日射しのような暖かい手を
生きていてよかったと
思いつづけられるように
体の傷、心の傷にずっとうつむいたままだったけれど、いつかきっと、顔をあげて、「生きていてよかった」声を交わす日が来ることを願う。そのために必要なのは人との出会いだった。冷えた心をそっと包み込むような暖かい手が必要だった。