原爆の爪痕9~ヒロシマ・ガールズ5 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 1955年、25人の女性がアメリカに招かれケロイド除去の手術を受けた。アメリカではヒロシマ・ガールズと呼ばれた。谷本清牧師の呼びかけに、それまで原爆孤児の支援をしてきたノーマン・カズンズ氏が応じ、奔走して実現した。しかし日本国内ではなぜアメリカでという反発も強かった。

 佐古美智子さんはそれでも手術を望んだ。

 

 「原爆を落とした国になぜ行くのか」。渡米治療が決まり、何度もその質問を受けた。少しでも元の顔に戻るならどこへだって行く。その一心で米国に飛んだ。(「中国新聞」2016.5.15)

 

 広島女子商業2年生の時鶴見橋のたもとで被爆した橘(旧姓神辺)美沙子さんも25人の中の一人だった。被爆してからの9年間、顔のケロイドを隠し、自分自身も隠れるようにして生きてきた。

 

 米空軍機C54のタラップで、見送りの家族らに手を振る表情は硬い。その写真に目を落とすと、橘美沙子さん(66)は「少しでもきれいになるんだったら。すがるような気持ち…」。期待と不安が入りまじる旅立ちをそう表した。(「中国新聞」1996.6.19)

 

 橘さんたちは1955年5月から長い人は翌年の10月までニューヨークのマウント・サイナイ病院に通院し手術を受けた。その間ホームステイをしたのはキリスト教フレンド派(通称クエーカー教徒)の家庭だった。ホストファミリーを取りまとめたのはイダ・デイという女性だった。

 

 デイさんの呼び掛けに応じたホスト家庭は、病院への送り迎えから、野球観戦にピクニック…。彼女たちの自立を願い、英会話やタイプ、洋裁学校にも通わせた。ある女性教師は夫を亡くしていたにもかかわらず1年間仕事を中断し、4人を引き取った。(「中国新聞」1996.7.11)

 

 「平和」「平等」「質素」「誠実」を旨とするホストファミリーの人たちに抱かれて彼女たちは変わった。彼女たちは中国新聞の渡米中最も心に残る思い出はというアンケートに対してこう答えている。

 

「死んだ方がまし。そう思っていたのが、真実の愛に触れ生きる気持ちがわいた」神辺美沙子

「クエーカー教徒をはじめとした方々の真心、国境を超えた人類愛です」田坂博子

「見守り続けてくれたマミーの愛情。ノースリーブを着て街を歩けた時のうれしさ」原田佳枝

「暗黒の青春が、人種を超えた愛で勇気づけられた。腕の自由が利くようになった」M・H

「治療より、マミーらから生きる力を与えてもらった。何よりも人の善意です」M・W

「ケロイドは恥ずかしくないという心が、受け入れてくれた家庭を通して生まれた」T・M

「ホスト・ファミリーの真心に、悲しみが消えた。また女性の自立を学んだ」T・S(「中国新聞」1995.2.26)

 

 何人もの女性が前を向いて歩く力をもらった。橘さんは渡米まではあれほど嫌っていた写真が、いつのまにかアルバムができるほどになり、それらの写真は笑顔であふれていた。