原爆の爪痕4~鶴見町3 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 広島女子商業2年生の時鶴見橋のたもとで被爆した和田雅子さんは顔に大きな傷が残った。それがもとで和田さんは、しばらくは家族にも心を閉ざした。それは「心のヤケド」だったという。(「中国新聞」2015.4.21)

 広島女子商業1年生だった大橋和子さんも命はとりとめたが、顔の左半面にケロイドが残った。辛かった。

 17歳の時は、友だちと行った海水浴場で写真を撮られた。

 

 17歳、友達と海水浴場で撮った写真。自分の顔の部分をはさみで切り取った。

 ふいに撮られた1枚だった。顔の左側を前に出してしまった。赤みがかり、こぶのように肉が盛って、ひっつれたような自分の顔が写っていた。切り取った紙片を、さらに細かくちぎって捨てた。(「中国新聞」2015.8.3)

 

 大橋さんは記者に何度も言ったという。「消えてしまいたかったです」。

 そして、心までも醜くなっていくようで怖くなったとも語っておられる。

 

 真っ暗な青春時代だった。「いつも誰かに腹を立てとりました」と振り返る。隣に住む同い年の幼なじみは無傷だった。髪をアップにして、堂々と白い肌をさらす姿が憎らしかった。気にしんさんなと励ましてくれる友人に、こうかみついた。「顔がきれいなんじゃけえ言えるんよ。なんなら代わってよ」(「中国新聞」2015.8.3)

 

 大橋さんが生き続けることが出来たのは、自分の何もかもをさらけ出すことのできる人と出会うことができたからだった。

 

 弟の中学の担任だった。思いがけずプロポーズされ、大橋さんは初めて全てをさらけ出した。自分の写真を切り取った17歳の記憶も、みじめさで押しつぶされそうなことも。そして、一生、私の顔を見ながら暮らせるのかと聞いた。「大丈夫。信じてください」―。あの人がいたから、生き続けることができた。(「中国新聞」2015.8.3)

 

 顔の傷は残っても、心の傷はいやすことが出来た。