鶴見橋の近くで被爆し大やけどを負った松原美代子さんは戸板にのせられて大河国民学校の救護所に運ばれた。2014年8月15日の中国新聞には救護所での松原さんの治療の記録が記された被爆者調査票についての記事がある。
「原子爆弾災害調査事項」と印刷された紙には、表裏で調査項目は17に及び、ドイツ語や英語でも記載がある。松原さんの熱傷は中程度の「Ⅱ」。それでも全身の30%をやけどしたことが読み取れる。
急性放射線障害の「脱毛」「倦怠(けんたい)等」に陥った一方、治療は「油 軟こう」を塗るにとどまっていたことも記載されていた。(「中国新聞」2014.8.15)
松原さんはさらに高熱、血便、歯ぐきからの出血などの症状も出てやがて昏睡状態におちいったが、奇跡的に意識が戻った。動けるようになるのはそれから8か月後のことであった。
一中の森下弘さんが受けた治療は「オキシフル消毒と敗血症の予防の注射」がやっとだったと書かれている(森下弘「先生同情されない人間になって下さい」広島原爆被爆教師の会『未来を語り続けて』労働旬報社1969より)。人づてに聞いた焼いた桐の粉末を油に溶かしたものや灸などもすべて試みた。
広島女子商の村輿文子さんも聞いたこともないような治療を受けている。
誰かから、人骨を粉にして塗ると良く効くし、傷痕も残らないと聞き、焼け跡から拾ってきて、姉の知り合いの軍人さんが粉にしてくれました。それを付けると、とてもしみて痛いのです。私があまり痛がるので、母が、私が眠っている間にそっと粉を振りかけましたが、あまりの痛さにすぐに気が付きました。(村輿文子「悲しい体験」広島原爆死没者追悼平和祈念館)
しかしそれらの治療はどれも効果はなかった。
私は自分の火傷の顔がどんなふうに治っているのか一番気にかかったので、「早く鏡を見せて …」と、母に言っていましたが、母は決して鏡を渡してくれませんでした。自分の足で歩けるようになったある日、こっそり鏡を覗いて、私は呆然として声も出ませんでした。そこには母に貰った顔はなく、別の顔が映っていたのです。まるで赤鬼のように大きく腫れあがって、目の辺りは熟したトマトのようにくずれ、眉毛がありません。これが自分の顔かと思うと、とめどなく涙があふれて止めることができませんでした。(松原美代子「私の被爆体験とヒロシマの心」『ワールドフレンドシップセンター被爆体験記』)
森下弘さんの家でも、鏡はすべて隠されたことを森下さんは憶えている。