中国新聞社編の『炎の日から20年ー広島の記録2』(未来社1966)をみると、原田東岷さんによるケロイドの研究が紹介してある。
それによるとケロイドは爆心地からの距離1.5kmから2kmまでの間で、若い人に多いとされる。
原田東岷さんは距離の問題について、「被爆距離があまりに近かった人は死んでしまった。生きのびることができる限界で、照射された人たちに多く発生した(中国新聞社前掲書)と結論付けられた。そして若い人にケロイドが多いのは、火傷を修復できるだけの体力があったためと考えられている。
若い人に多いのはもう一つ理由がありはしないだろうか。8月6日当日、爆心地から1.5kmばかり離れた鶴見橋のたもとには2000名近い中学生、女学生、国民学校高等科の生徒が建物疎開作業に集められていたのだ。
その中で広島一中3年生だった森下弘さんは原爆がさく裂した時の様子を次のように書いておられる。
私は、一瞬巨大な溶鉱炉の火にとりかこまれたように、またすっぽりと火の驟雨に包まれたように感じ、平素教わっていたように目と耳をふさいで地上に伏せた。爆風、音は感じなかったが、すでに顔と手は熱線で焼かれていた。(森下弘「原爆体験とその後」広島県立一中被爆生徒の会『ゆうかりの友』)
それでも70名ばかりの一中の生徒でその年に亡くなった生徒はいなかった。
それに対して広島女子商業の生徒1、2年生は、500名ほどのうち262名が亡くなったとされている。(2004広島平和記念資料館)
…空襲に備えて黒い服装で来ること、持っていない人は、冬のセーラー服でも良いから黒い服を着てくるように」と言われました。そのため、私は、木綿の紺色に白い小さなかすり模様の着物地で手作りした長袖のブラウスともんぺを着ていきました。(村輿文子「悲しい体験」広島原爆死没者追悼平和祈念館)
一中の生徒が被爆したのは作業前の指示を受けている最中だったから、間違いなく厚手の上着も着ている。それに対して村輿さんはわざわざ濃い色を選んだ、しかも薄い着物地のブラウスともんぺといういでたちで出かけたのだった。
同じ広島女子商業の松原美代子さんも黒っぽい服装で原爆の閃光を浴びた。
私は驚きました。2、3日前に、白い色は飛行機から目立つということで、一日がかりで茄子色に染めた上着と、もんぺが熱線で焼け、胸の辺りと腰の辺りの布地がぼろ布のように残っているだけでした。ただ土煙で汚れた白いシャツとパンティだけの姿になっていました。(松原美代子「私の被爆体験とヒロシマの心」『ワールドフレンドシップセンター被爆体験記』)
松原さんは顔、両手両腕、両脚と体の三分の一以上に大火傷を負った。