原爆が投下された当時、宇品の陸軍共済病院に勤めていた宇都信さんは、押しよせる負傷者の中に自分の妻、広島一中1年生の三男の姿を見つけた。
8月6日の朝、妻は町内会で、三男は中学の勤労動員で、爆心地から1kmちょっとしか離れていない雑魚場町の建物疎開作業に出かけていた。
妻は院庭の草むらに大勢の傷者に交って横たわっていた。顔は腫れ上って眼は塞り、ほとんど裸体で全身塵煙で真黒く、呼びかけられなければそれが私の妻であるとは識別がつかない程むごたらしい姿であった。
(宇都信「奇蹟に生きる妻」広島市原爆体験記刊行会編『原爆体験記』朝日選書)
三男の桂三君は6日のうちに亡くなった。一中1年生約150名は全滅である。桂三君は上半身裸で瓦運びをしている最中に閃光を浴びたとのことであった。
一方宇都さんの妻は、顔、首、両腕、両足の膝から下に大火傷を負っていたが、体幹と太ももは火傷を免れていた。薄地の着物は日焼けに良くないと妻を説得してネルのシュミーズを着させていたのがよかったようだ。
それでも顔や首などは桃が熟れすぎて崩れていくように膿んでいった。白血球はどんどん減っていく。そして全身に血の斑点が現れると妻も臨終の近いことを知り遺言を漏らした。
必死の一夜は明けた。白血球数は四百となり、妻は満身の疼痛に悶えながらも意識は明瞭であるが、視力が全く消えて、私や子供が見えないといい出した。私は妻の苦しみをやわらげて安らかに永眠させる術はないものかと一心不乱に念じ詰めた。
ふと止血剤が私の脳裏を掠め、トロンボゲンの名が浮んだ。(宇都信 同上)
止血剤の注射が全く効果がなかったという話もいくつかあるのだが、宇都さんは少なくとも妻が一命をとりとめたのはトロンボゲンのお蔭であると確信している。
しかし後遺症は残った。
ひどい火傷をしたものの2~3か月して治ったかと思われたころ、火傷をしたところが盛り上がって、まるでカニの赤銅色の甲羅や足が張り付いたようになるのがケロイドである。初期には手術をしてもすぐに再発した。
宇都さんの妻も顔、首、肩にケロイドが出た。左指4本も不自由である。
そしてさらに苦痛なのは、被爆後数年もすると、周りの人の妻の顔を見る目が「憐憫」から「蔑視の白眼」に変っていったことであった。