原邦彦さんは爆心地から900mのところにあった広島一中の木造平屋建て校舎の中で被爆した。原さんは大した傷もなく校舎から脱出できたが、比治山まで逃げたころにはひどい吐き気を催した。吐いても吐いても吐き気が続き、ついには黄色い液を吐きだした。放射線障害の最初の症状である。
友人の祖母の家で厄介になっていた原さんが家族のもとに帰ったのは8月13日だったが、8月16日になって原さんの体に異変が起きた。髪の毛が抜けだし、2、3時間のうちに丸坊主になってしまったのだ。被爆者は皆脱毛におびえた。
ついで原さんは体に赤い斑点が出ているのに気づく。これぞ死の前兆である。さらに鼻血が止まらなくなり、洗面器が噴き出した血でたちまち一杯になった。造血機能が放射線により障害を受けているのだ。白血球の減少で感染症を併発したのだろう、熱も42度にあがった。
ある晩、医者は「あと一呼吸で終りですよ」と告げた。それでも原さんはその夜を何とか持ちこたえた。その後も42度の熱は一週間ばかり続き、口内炎も起こして歯ぐきは紫色に腫れ上がり何も食べられなかった。母親は思いついて豆腐屋さんから豆腐の搾りかすの汁を分けてもらった。
奇跡的に生き延びた原さんが家の中を歩けるようになったのは秋祭りのころ。そして髪が生えそろったのは翌年の春だった。(広島県立一中被爆生徒の会『ゆうかりの友』より)
これが急性放射線障害である。倒壊した校舎から脱出できた生徒も4人のうち3人はおそらく急性放射線障害で亡くなっていった。原さんたち19名の生徒が1945年を生き延びることが出来たのは奇跡というほかない。
9月も半ばを過ぎると、広島逓信病院でも「原爆症」の予断を許さぬ重症患者はいなくなった。頭の毛は薄くなったままだが血の斑点が消えた人も出てきた。
広島全体でも9月中旬を境に急性放射線障害で亡くなる人はほとんどいなくなったようである。(広島市長崎市原爆災害誌編集委員会『原爆災害ーヒロシマ・ナガサキ』岩波書店1985)
プレスコードによる報道統制もあって新聞からは「原爆症」の記事が消える。町は次第に復興の槌音が聞こえるようになった。しかし、終息したのはあくまでも急性の放射線障害であって、「原爆症」はまだ被爆者を追っかけていたのだ。