『ヒロシマ日記』9~入市被爆 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 広島逓信病院の蜂谷院長は9月16日になって入市被爆の話を耳にする。

 

 病室では、誰が吹聴したか、ピカ直後広島へきた者が原子症そっくりの症状で次から次へ発病し、重いものは死に、軽いものは下痢、血便程度で治った…(蜂谷道彦『ヒロシマ日記』)

 

 どうも蜂谷院長、それほど気に留めていないようである。

 蜂谷院長は9月3日に広島東警察署で開かれた東大医学部都築正男教授の講演を聞いている。中国新聞は都築教授が入市被爆についても語っていることを報じている。

 

 爆発の後、入市した人の中には相当の症状を呈し、死亡した人もいる。爆発後、数日間以内に爆心から半径500メートル以内の土地で働いた者にはある程度の傷害が与えられていると考えてよい。(「中国新聞」1945

.9.11~13ヒロシマ平和メディアセンターデータベース)

 

 しかし蜂谷院長の『ヒロシマ日記』には、そのことについてのコメントはない。もしかしたら、院長自身直接被爆しても元気なのに、どうして後から入って来た人が「原爆症」になるのか納得できなかったのかもしれない。

 けれど後から市内に入った人にとっては恐怖以外の何物でもない。

 当時陸軍船舶通信隊に所属していた松井幸雄さんは、原爆がさく裂した時は広島からはるか離れた安芸中野駅にいた。急いで市内に入って比治山の部隊に合流し、終戦まで救護活動に従事した。そして9月10日ごろから19日まで宿舎で復員を待っていた時のことである。

 

 この間、われわれが最も恐れていたことが現実となった。

 それは、直接被爆者でない者までもが、脱毛・血便の症状が出てきて収容されたことだった、(当時これが原爆症といわれた。)それからというものは、元気な者までがすっかり原爆症ノイローゼにかかり、朝、起床したらお互いに同僚の頭髪をつかんで引っ張り合って、毛が抜けなければ安心したものだった。(松井幸雄 「被爆者救護活動の手記集」『広島原爆戦災誌』)

 

 院長が聞いたら頭を悩ませたであろうことが広島逓信病院でも起きていた。

 岡山医科大学の学生だった杉原芳夫さんは9月10日ごろに逓信病院に入っている。解剖の手伝いや血液検査に従事し、岡山に戻ったのは9月29日だった。

 

 その夜、ひどい全身倦怠に続いて四十一度の高熱と、経験したこともない激しい咽頭痛に襲われ、文字どおり輾転反側して一夜を明かしました。その異常な苦しさに、私はピカドンにやられたと直感しました。(杉原芳夫「ある病理学者の怒り」山代巴編『この世界の片隅で』岩波新書)

 

 「原爆症」の謎はまだ尽きなかった。しかし、9月19日になるとGHQがプレスコードを出して報道を統制し、「原爆症」は新聞の紙面から消える。