現在は広島駅近くの上幟町にある日本メソヂスト広島中央教会、通称広島流川教会は、被爆当時は今の鉄砲町(当時 上流川町)にあった。三越の電車通りを挟んで反対側になる。爆心地からの距離は900m、原爆で建物は倒壊した。
当時流川教会の牧師だった谷本清さんは原爆がさく裂した時は己斐にいて広島の恐ろしい光景を目の当たりにした。家族や教会の信者の人達はどうなっているか心配でたまらず、谷本さんは走り出した。やっとたどり着いたのは町内会の避難場所に指定されていた泉邸(縮景園)である。
谷本さんは川舟を見つけて重傷者を乗せ何度も対岸に渡した。午後になって泉邸の木々が燃え出すと、軽傷の人に呼びかけてバケツリレーで火事に立ち向かった。日も暮れてくると炊き出しのおにぎりをつくるため米も探しに出かけた。
時は、もう夕方の六時ごろ。男子の元気な方が、焼けなかった防空壕から米を、家庭菜園からまだあまり熟していないカボチャを取って来られた。
防水壕の中から、また五升炊きの釜を探して来て、壊れた水道管のチョロチョロ水を使い、にわか造りのクドでご飯をたいた。五升ばかりの米で二百個ほどのおにぎりを作るのは骨が折れた。(桑原房枝「泉邸にて」『広島原爆戦災誌』)
1946年5月、そのころ流川教会の復興に駆けずり回っていた谷口さんと初めて会ったときの印象をジョン・ハーシーは次のように書いている。
眉のすぐ上の前額骨が張り出していることと、口髯や口や顎が小作りなことは、老けているような若いような、子供っぽいような分別くさいような、弱気のような癇の強そうな、妙な表情を彼にあたえている。(ジョン・ハーシー『ヒロシマ』法政大学出版局)
5日間、谷本さんは泉邸で奮闘した。そしてその行動力はその後の平和運動においても十二分に発揮された。また、1946年8月に『ニューヨーカー』誌上で発表されたジョン・ハーシーの「ヒロシマ」は大きな反響を呼び、以後、谷本牧師とアメリカ市民との深いつながりが生れていく。