峠三吉は詩「その日はいつか」の中で、戦時中新聞やラジオでは決して知ることのできなかった戦争の行方を書き留める。
そして近づく八月六日、
君は知ってはいなかった、
日本の軍隊は武器もなく南の島や密林に
飢えと病気でちりぢりとなり
石油を失った艦船は島蔭にかくれて動けず
国民全部は炎の雨を浴びほうだい
ファシストたちは戦争をやめる術さえ知らぬ、
(峠三吉「その日はいつか」部分『原爆詩集』)
原爆投下時には日本軍はすでに戦争遂行能力はなかったと言いたいのだろうが、どうしてこれらの出来事を選んだのだろうか。
日本の軍隊が散り散りになっているとあれば、思いつくのは『俘虜記』に続いて大岡昇平が1951年に発表した『野火』である。けれど、「その日はいつか」と『野火』に接点があるとは、私には感じられない。
『野火』はフィリピンのレイテ島が舞台であるが、今は、その他の島でも飢餓と病気の中を彷徨した多くの兵士がいたことを体験記で知ることが出来る。
熱い素うどんを一杯、死ぬ前に食べたかった。うどんが一杯食べられたら死んでもいいとも思った。雨季になった山の中で、栄養失調になって衰弱死を目前にした私は寒かったのだと思う。熱い素うどんを一杯食べてから死にたかった。
(大森喜代男「消えぬ記憶」NHK戦争証言アーカイブス 戦争の記憶~寄せられた手記から~)
持った銃・刀を杖替りにしているため、土が詰って使い物にならず、戦う意欲気力など全くない。とにかく集団の動きに付かねばとただそれだけである。もうこうなれば勿論こうなれば階級も上下など全く無い。如何に食料を手に入れてくるか、上手に探して来るかであり、探し当ててきた者が一番偉い人なのだ。
(鈴木武「ルソン島『雑兵の記』」NHK同上)
鈴木さんはこうも言っている。
…とにかく集団から離れない様に中に入って歩かねばならない。離れたら現地人に殺される。それ程に反感はひどかった。(鈴木武 同上)
「反感」と鈴木さんは捉えていた。それは、こちらが殺されるほどのことを日本軍がしたのだと、わかっていたからであろう。
ラヂオニュース中にて比島に於ける日本将兵の人民又婦女子らへの聞くに耐へぬ惨虐暴行行為をこく明に放送する。胸間苦悶、ラヂオを叩き毀したく覚ゆ(峠三吉「被爆日記」1945年9月16日部分 広島大学ひろしま平和コンソーシアム・広島文学資料保全の会)
峠三吉も半信半疑ながら知っていた。しかし、それには触れない。