その日はいつか2~宇品町 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 峠三吉の詩「その日はいつか」の中で、紙屋町広場で亡骸となっていた少女の生い立ちは、三吉の想像力によって生み出された。

 

君のうちは宇品町

日清、日露の戦争以来

いつも日本の青年が、銃をもたされ

引き裂かれた愛の涙を酒と一緒に枕にこぼし

船倉に積みこまれ死ににいった広島の港町、

(峠三吉「その日はいつか」部分『原爆詩集』)

 
 宇品町は被爆時に峠三吉がいた翠町の南に広がる広い町だ。
 1894年7月、日本軍が朝鮮王宮を占拠し、翌月清国に宣戦布告して日清戦争が始まった。先陣を切って宇品港から朝鮮に向かったのは広島に置かれた第五師団だった。以後、北清事変、日露戦争、第一次世界大戦、シベリア出兵、朝鮮三・一独立運動、そして日中戦争と、続々と宇品港から広島の兵士が送り出されていった。
 しかし、「銃を持たされ」「船倉に積みこまれ」と、兵士も一人の人間であり、心ならずも戦場に向かったという表現は、戦後すぐのころは新鮮な表現だったのだろうか。
 もちろん親からすれば大切な我が子である。兵士だからといってむざむざ死んでいいわけがない。
 1944年5月、石田明さんは陸軍少年航空兵として出征した。本人は志願が認められて大喜びであったが、駅のホームで母親が駆け寄ってきて言った
 

 …万歳の声と人垣をかきわけるように母がかけよってわたしの手を取り、かくれるような小さい涙声で「明、明、きっと生きて帰ってくるんで」と、うるんだ目でわたしをにらむようにいいました。(石田明『被爆教師』一ツ橋書房1976)

 
 それでも石田さんの「尽忠報国」の志に、その時一点の曇りもなかった。
 私の伯父も同じである。1940年、陸軍士官学校を卒業するとすぐに中国戦線に向かった。宇品港を出港したのはその年9月15日であった。
 
 進軍ラツパト共ニ乗船勇躍タリ 海送ラルヽモノ 陸送ルモノ 然一タリ 噫ソノ感激 宇品ノ光景 忘ラレザルナリ(精舎善明日記)
 
 もちろん、兵士の日記に反戦はもちろん厭戦の気配さえあっていいわけがない。しかしそれを差し引いても、当時19歳の伯父はやる気満々だったようである。
 その半年後、伯父善明の胸部脊髄を銃弾が貫通した。
 もし、銃弾を受けていなかったら…それだったら、伯父は突撃命令をずっと出し続けていたに違いない。
 そして銃を持たされた日本の青年は、間違いなく、引き金を引いただろう。それが戦争だと思う。