1945年5月10日、山口県徳山市が大空襲にあった。1日約3000バーレルの原油を精製する国内最大の燃料拠点海軍燃料廠が標的だった。燃料廠では500人以上が死亡し、重油タンクは三日三晩燃え続け、工場の全機能は停止した。(『改訂版呉空襲記』中国新聞社1975)
燃料がなければ残った日本の軍艦も身動きできない。しょうがないので甲板を松の木で覆ってあちこちの島陰に隠れた。
石油を失った艦船は島蔭にかくれて動けず(峠三吉「その日はいつか」部分『原爆詩集』)
ポツダム宣言の前々日の7月24日、日本の残存艦隊掃滅を目的として艦載機約870機が呉軍港とその周辺に来襲した。
中国新聞にもすぐに連絡が入った。大佐古一郎記者は日記に記している。
わが空母一隻、残存戦艦など数隻が沈没もしくは大破して、海軍勢力は消滅したのではないかという。(大佐古一郎『広島 昭和二十年』中公新書1975)
しかし消滅したのは海軍だけではなかった。
重巡洋艦青葉は呉市警固屋沖に大破のまま係留されていたが、近くの海岸には約300戸の民家が密集していた。24日から28日にかけての猛烈な波状攻撃では住民の被害もひどかった。
当時国民学校5年生だった宮下信義さんのお母さんが消えた。
爆撃が終わって横穴防空ごうから出て見ると家がメチャクチャに壊れ、燃えていました。母の姿が見えないので近所や畑を泣きわめきながら捜しました。翌朝、空襲警報が出ても母が帰って来ないので〈死んだ〉と気づきました。家を一生懸命見て回ったら玄関の柱に長い髪の毛や肉片が飛び散っていました。(『改訂版呉空襲記』中国新聞社1975)
青葉の係留については、当時町内会長だった下中岩吉さんの証言がある。
艦の偉い人が来て〈青葉がおりゃ恐れることはない。一発主砲を撃ったら、弾の通る道が真空になるけん、飛行機は全部落ちる〉と言うんです。〈不安だから退いてくれ〉と言えん時代でしょう。〈そんなもんかいなあ〉と思いながら暮らしていました。(『改訂版呉空襲記』)
峠三吉の公開されている「被爆日記」は1945年7月29日からであるが、8月1日、次のように書いている。
敵我が方をあなどりてほしいままに接岸、本土を艦砲射撃しあり、何処なりと自由に撃て、今は我等唯戦備を蓄へむ。(峠三吉「被爆日記」広島大学ひろしま平和コンソーシアム・広島文学資料保全の会)
峠三吉はいつごろまで日本の軍隊を信じていたのだろうか。