愛媛旅(3) 大洲城 | 福田町電車区

▲ 臥龍山荘を見学後、大洲の街並みを散策しながら次の目的地へ。

 

▲ 3か所目は大洲城です。6年前にも行きましたが、もう一度大洲城を見学したく6年ぶりに再訪です。

 

大洲城は元弘元年(1331年)、鎌倉時代末期に守護として国入りした伊予宇都宮氏の宇都宮豊房によって築城され、その後、藤堂高虎等によって大規模な修築が行われました。

明治維新後は、城内のほとんどの建築物が破却されたものの、地元住民の活動によって本丸の天守・櫓は一部保存されましたが、明治21年(1888年)老朽化により、天守は解体されてしいました。
その後、大洲城を愛する地元住民の城郭への保護活動と、市民による寄付等によって平成16年(2004年)に復元されました。天守の復元にあたっては、明治時代の古写真や「天守雛形」と呼ばれる江戸期の木組み模型など豊富な資料が残っていたことから、当時の姿を正確に復元されました。参考資料がなく近隣の城を参考に想像で再建された城もある中で、復元に必要な資料が多く残っている事で正確に復元できた大洲城は非常に稀な事例であります。

 

▲ 大洲城の特筆すべき点として、天守閣内部が全国的にも珍しい吹き抜け構造となっている点。上階に床を貼っていない理由については諸説ありますが、西洋の建築の影響を受けたのではないかとも考えられているそうで。

 

▲ 四層四階の複連結式天守は、戦後復元された木造天守としては日本初で、19.15mの高さは日本一となっています。これだけ規模の大きな建造物を木材で再建となると、建築基準法では認められない規模であり、当時、愛媛県に建設計画をなかなか認めてもらえませんでしたが、2年近い折衝を経て、保存建築物として建築基準法の適用除外となり、往年の複合連結式による天守群の復元にいたりました。
 

▲ 天守閣からの眺め。予讃線の単行の普通列車が宇和島方面(左方向)へ向けて肱川を渡ってゆきます。

 

▲ 東側。市内を肱川が蛇行して流れています。

 

今度は大洲城を出て南へ数キロ歩きます。

 

▲ 三の丸外堀。現在は大洲高校のグラウンドとなっていますが、石垣はそのまま残っています。この他にも各所に櫓や石垣などが残っており、城の石垣が学校や住宅の土台としてそのまま使用されているところなどもあります。