れいわ新選組が懲罰への不平不満を言う前にすべき事 | 大放言・毒を吐くブログ アメーバ版

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※狂っているのも恥を知るべきなのもコイツ等。

5月18日の衆議院本会議で与野党を批判するプラカード掲げる愚挙を仕出かしたれいわ新選組の櫛渕万里なる議員に対して「登院停止10日間」の懲罰処分が決まった。これに対して代表の山本太郎は「狂っている」「恥を知れ」等と抜かしている模様だが、狂っているのも恥を知るべきなのもコイツ等れいわ新選組である事は論を待たない。自分達の主張だけが全てで他者を全否定するその姿勢そのものが既に民主主義を逸脱しているのだが、コイツ等の脳味噌ではその意味が理解出来ないらしい。


※パフォーマンス目当てなら国会議員である必要はない。

国会議員への懲罰には「除名」「登院停止」「議場での陳謝」「戒告」の4つがあり、「登院停止」は2番目に重い懲罰となる。山本太郎としてはこれに大いに不満の模様だが、そもそも不満を口にする事すら烏滸がましいと言うよりない。

確かにプラカードを国会で掲げる、と言った行動は民主党も、また野党時代の自民党もやっていた事だ。誰がやっても国会の品位を棄損する行為である事に変わりはない。だが、今回のケースの場合、5月12日の衆議院本会議で同じれいわ新選組の大石晃子が同様にプラカードを掲げる愚挙を仕出かし、その際に厳重注意を受けている。それから1週間も経たない内に同じ政党の人間が同様の行為をやらかした。直接的な懲罰ではないものの、先の「厳重注意」を完全に無視した確信犯である事は疑いの余地はない。そういう伏線があったからこそ今回「懲罰事案」として取り扱われる事になったのだ。山本太郎は不満を口にする前にその意味を理解すべきだし、厳重注意、と言う処分を受けて先ずは自分達の行動を改めるべきだった。それから要するに自分達が行動を改めればこの様な事態は防ぐ事が出来た訳で、それをしなかった事を棚に挙げて他者の批判にばかり終始している事自体がおかしいのである。

※それがれいわ新選組に対する国民の総意であろう。

それどころか今国会に限らずれいわ新選組は採決の際に牛歩戦術を採る等、国会の品位を棄損する愚行の例は事欠かない。国会にも当然「秩序」と言う物が存在し、議員としての行動規範、また国会の秩序は「国会法」と言う法律で定められている。それを守れない者が何を言っているのか?決められたルールを守るのは国会議員どころか社会人としての最低限の常識であると言える。それが出来ない輩を国会議員にしようと言うれいわ新選組もれいわ新選組だが、コイツ等の詭弁に乗せられてこんな連中に投票する有権者も有権者である。悪い事は言わない。自民党を批判するのは大いに自由だが、野党に投票するにしてもキチンとその主張の本質を見極めて投票先を選ぶべきである。

※れいわ新選組にはもっとそういう痛手を与えるべき。

山本太郎は

「紙を掲げて『闘う野党』を再興しようと、もう一度みんなでちゃんと戦おうと提案した。それで登院停止というのは…。言葉を選ばずに言うと、狂ってますね。不当以外の何物でもない」

とか訳の分からぬ事を抜かしている。自民党の政策に徹頭徹尾反対でも結構だし、それを標榜して「闘う野党」を自称するのも結構だ。だが、国会と言う場ではその唯一無二の手段は「論戦」であり、コイツ等が自民党の政策に反対して自分達の主張を逆に自民党に受け入れさせたいのであればキチンと論戦でそれを主張して自分達の主張の正しさを論証するのが「闘う野党」の王道ではないのか。そもそもれいわ新選組がそんな事をやった実績があるのか?コイツ等のやっている事は一言で言えば「パフォーマンスで目立とうとしているだけ」でしかない。しかもそれはコイツ等のオリジナルではなく、過去に「社会党や民主党がやった事の二番煎じ」でしかない。多くの国民は既にそういう真似に辟易しており、その結果もあって今の野党、特に立憲民主党や社民党の凋落に繋がっているのではないのか?そういう現実から何も学んではいない様だ。それだけで存在そのものが「無駄」である十分な証明なのだが。

※それが結論。

また厳重注意を受けた大石晃子は

「本当に不当で、むしろ体を張って信念があるなら、プラカードでも体当たりしてでも止める法律があるんじゃないのかということを、この懲罰に加担した全ての議員の方々、政党の人に問いたいですね。本当に『恥を知れ』と」

等と言っているが、野党、特に立憲民主党はとっくにそんな真似はやっている。例えば安保法制の時に物理的な抵抗までやっていた事は知らなかったのか?そこまでして連中は信念を貫いた、と言えるかも知れないが、その後の結果を見れば安保法制において野党が当時主張していた様な例が現実になった試しは皆無だし、その後の選挙結果を見れば「手段を問わず信念を貫いた」と本人達は思っていても国民がその姿勢を評価したのか否かは明白である。大石晃子が言う様な事をしても国民がそれを評価したり、同情する事は「ない」のである。語る前にそれ位認識するべきだし、それが出来ない時点でコイツ等は「民意の何たるか」も理解していないのである。つまり口では「国民の為」とか言っていても実際には「自分達の為」でしかないのである。

しかも綺麗事を美辞麗句で飾った主張を信じて民主党政権を誕生させた結果どうなったか?は国民が身を以て知っている。未だにそれに対する反省も成長もない立憲民主党を見ればその二番煎じをした所で「泡沫政党」の域を出ない事は明白なのに立憲民主党や社会党の二番煎じをする意味が一体何処にあるのか?致命的とも言える「政治センスのなさ」である。こんな連中に投票する人も同じ穴の狢でしかない。連中もその支持者も政府を正す前に先ずは己を正すべきである。

※本物の新選組隊規則。

コイツ等が何故「新選組」を冠する名称を採用したのかは知らないが、本物の新選組隊規則では筆頭に

「士道に背くまじき事」

としている。実際にこれに触れて切腹に追い込まれた隊士は数多い。連中が「新選組」の名称を拝借するのであれば政党として「国会内での秩序」を守ってその主張を実現させるのが「コイツ等にとっての士道」ではないのか?要するにその意味ではコイツ等全員「士道不覚悟」であり、本物の新選組であれば全員切腹ものだ。勿論現在では切腹などさせてはならないが、新選組に敬意を持って名称を拝借したのなら、全員国会から去って自分達を見つめ直して出直して来るのが不平不満を言う前にコイツ等がやるべき事である。と、言うかそれなくして「新選組」を名称に取り入れるのは新選組に対する冒涜である。そしてそんな連中に巨額の税金が無駄に流れているのだ。幾ら自民党に不満でもコイツ等は明らかにその自民党の足元にも及ばない。いい加減目を覚まして先ずはこういう輩を国会から排除する事が「政治の浄化の一丁目一番地」である。

※れいわ新選組にこういう精神はない。