大津秀一著「死ぬときに後悔すること25」(新潮文庫)を読む | 世日クラブじょーほー局

世日クラブじょーほー局

世日クラブ・どっと・ねっとをフォロースルーブログ。

 

 著者の大津氏は、緩和医療医。これまで千人の最後を見届けてきたという。そんな氏が、これまでの医師としての経験と実感をもとに、人生を後悔しないための25カ条(=多くの人が後悔すること)を説いてくれている。そのすべてが「なるほど」と膝を打つものばかりだが、実践できるかどうかは微妙なものもチラホラ。先立つものや時間の捻出は容易ではない…といえばこれも言い訳なのかもしれないが、わかっちゃいるけど…の世界。

 

 大津氏は、現代医学の風潮に一石を投じてもおられる。今や日本人の死因の第一位であるがんについて、「単純に西洋医学や公衆衛生の向上が感染症などかつての死因を激減させたため、結果として人は長生きとなり、細胞分裂の総回数を増やすこととなったがゆえに、『エラー』であるがんが生まれる確率を増やした」側面の可能性を指摘。また、終末期医療について「ただ長生きすること、ただ健康であること、それが人が生きる最高の『目的』とは思われない。長生きや健康は、自分の夢や希望をかなえる『手段』であると思う」「その医療が人を笑顔にするものでなければ、それはまやかしの医療だ」と強調されるが、まったくその通り。なお、「人が生まれ、交配し、子孫を残すのは、あるいは生きるために食し、寝るのは、生物としての既定路線にすぎない」とし、「人が人であるように生きるということは、そのような生物のくびきから逸脱して生きることかもしれない」との提起も同感だ。さらに「人が見ていなくても、自分は見ている、そして天がみている」「犯罪など犯すべきではない。刑罰があるとかそのような理由ではなく、結局そのこと自体が自分を救うどころかより苦しめるから」に至っては、我が意を得たり。

 

 25カ条の中で、特に印象的だったのが、19番目「結婚をしなかったこと」。その中で「片方が死病に冒されていることを知りながら、つまりごく近い将来に死別することを知りながら、結婚し入籍したカップル」が必ずしもごく稀でないとのこと。そして自らも関わった同様の事例をあげておられる。大津氏は「良い結婚は心の安定と活力を生み出す」とした上で、「受からないと知りつつ受験する『記念受験』のような、通過儀礼としてやっておこうかと、そういう安易な印象は受けない」と。かつまた、勢いやヤケで、ということでもなかろう。しかし、入籍してもほどなく、確実に一方の伴侶の死は訪れる。その後、残された側の人生は長いものになるのかもしれないとして、その再婚までお互い了解済なのか?いやとてもそうは思われない。ともかくも、その後、一人で生きていくことを承知でも結婚したいと思うカップルが一組や二組ではないのだ。

 

 大津氏は結婚という「形」の揺るぎなさや安心感を求めてのことと分析しておられるが、それだけでは物足りない。通常のカップルでも、普段は信仰の欠片もないくせに、いざ結婚となると、チャペルがいいか神前式がいいかなどと霊験あらたかに執り行うことを望む。それは神仏の前に誓いを立てることにより、たとい肉体は滅びようともその愛を神聖で永遠性のものにしたいとの本心からの発露ではないのだろうか。無論、合理的に説明できようものではないことは確か。

 

 もう一つ印象深いのが、20番目「子供を育てなかったこと」で紹介されているエピソード。ある男性が二十数年前、「好きな人ができたから」と言い残し、妻と二人の幼い娘を捨てて出て行った。二人の娘はただ泣いたそう。母親はそれからひたすら働き、貧しいながらも二人の娘をまじめにまっすぐ育てあげた。しかし、無理が祟ったか、娘がともに成人して間もなく他界。また娘たちは泣いた。そして、自分たちを捨てた父親を一生許さないと思ったと。それから十年余りが経って、彼女らに、その父親の危篤が伝えられる。二人は思い悩んだ挙句、会いに行くことを決断するも、「罰があたったんだ」などと眼前で罵ってやろうと身構えていたそう。しかし、病床の寝たきりの父を一目見た刹那、彼女たちは一生懸命その世話をはじめたという。数カ月間にわたり父の意識はもどらないままだったにも拘わらず、一切手を抜かない見事な介護だったそう。大津氏がこれを評していわく、彼女らは「家族の時間を取り戻しているのだ」と。

 

 この父親がクズであることは論を俟たない。しかし彼女たちにとってはかけがえのない唯一の肉親だったのであり、どんな事情があれ、それを変えることなどできない。何より命を与えてくれた存在。親がいなければ「私」は存在しなかった。両親が出会うまでの背景を考えてもみよ。「私」という存在は奇跡の連続の結果なのだ。よもや存在することとしないことをその価値において比較できるとでも?元来、感謝してもしきれないはず。だがしかし、こんなケースはまれで、「あの人はもううちとは関係ない」とか「遺骨だけ送って下さい。骨にするのはそっちでやって下さい」という反応こそありふれたものだという。この母親は男選びは失敗したが、子育ては成功した。無様で屈辱的な思いは家族で共有したろうが、子に毒を吹き込むことはしなかったのだろう。

 

 しかし今、世間の風潮は、「親ガチャ」とか「反出生主義」などと称して、「生んでくれと頼んだ覚えはない」などとこれでもかと親を断罪し、親子関係に法や行政及びNPOが遠慮なく割って入ることを是とする。確かに幼少期の虐待などによって死に至らしめたり、生涯にわたるトラウマを負わせるなどのケースは後を絶たず、緊急性を要する事案は存在する。しかしそれは特殊な事例だ。それとも先の二人の娘は逡巡などせずに、今こそ積年の恨みを父親に投げつけ、「自業自得」「ざまァない」と蹴りの一つでも入れてリベンジすべきとでも? そうすれば本人たちも天国の母親も満足すると?しかし、それをやっちゃあおしまいよ。親も未熟なのであり、必ずしも子にとって理想的な存在ではない。親の成長も含めてその家族の課題だと捉えるべきかもしれない。無論周囲のサポートが必須だ。「愛されなかったことを恨みとせず、愛せないことを恨みとせよ」それが人間の人間たるゆえん。かのオードリー・ヘプバーンもそういう生き方をした。

 

 大津氏はこう締めくくっておられる。「ありがとう」それは後悔のない最期のために必要な言葉だと。この一言を生涯どれだけ言うことができたのか。もしくはせめて今際の際にこの言葉で締めくくることができたか。自分の人生の採点は見極めがつくし、それが悲喜こもごもでも納得せざるを得ないだろう。